――たとえばあの白い船を、あなたが見る前に沈めてしまえた
のならば。
 こんな悲しい出会いはなくても良かったと思わないか?
 きっとあなたは……何も想わないのだろうけれど。


 ふわり、空を舞うグレイの双眸が爛々と輝く。それは獲物を狙う
野性の獣の眼差し。
「キルケさま! もうすぐこっちに来る!」
「そう――」
 空を飛ぶことの出来ないキルケは、表情を消して水平線を泳ぐ
白い船を見ていた。その漆黒の双眸が軽く細められ、唇が言の
葉を紡いでいく。
「眠れ。冷たい柩に収められし死者。
 血すらも凍る世界へと誘わん」
 彼女の愛用していた杖が、三日月に喰われる太陽をモチーフに
した杖の先端に光が集まる。それと共に数多の精霊たちの歌声が
響き渡る。
 キルケの傍らで待機していることを命じられたシュテルンは、気分
の昂揚と同時に息苦しいくらいの魔力のに高まりを感じた。
 恐らくは、これが全盛期であった当時の精霊たちの力――弱体化
した今の魔族では到底扱うことのできないほど、大きな力。
「船までの道を作るわ――一気に攻めなさい」
「……御意」
 小さく頷いて、キルケの杖が天へと翳されるのを見る。
 解き放たれ魔力は瞬時に氷の道を作り上げる。海面が凍てつく吹
雪によって凍らされ、次々と押し寄せる波までもを凍らせていく。
 その氷に進路を阻まれた船が、氷を破壊しながら速度を落としていく。
 ここまでならば先日までも戦いと同じ――しかし、違うのは。
「乗っているのは法術士。油断しないように」
「――オレは、多少の耐性がありますから」
 法術――魔術とは逆の位置にあるもの。
 精霊を用いて攻撃し、時には防御にも回るそれとは違い、法術の
大半は人間の潜在能力から紡がれるという。その能力は、魔族を
衰弱させ、ジワジワと殺していくもの。
 人間との交流がなく、手に入る死体を研究しても解けなかったそ
の仕組みに、法術士だけは人間の中でも脅威であった。
 もっとも――魔族の全盛期時代を生きたキルケに効果があるの
かは謎でしかないが。
 魔力でねじ伏せるか――または。
「……あれは――」
 キルケの目線が氷の道へと向けられる。
 つられて向いてみれば、そこには足元の氷を散らせながら突進
してくる大柄な男の姿があった。咄嗟にシュテルンはその名を叫ぶ。
「ヒューゲル!!」
 その声が届いたのか、ヒューゲルはまっすぐにキルケを――否、
七瀬夕莉を睨んだまま迷いのない瞳で向かってきた。
 大振りの大剣が振り上げられる。
「テメェェェ!!!」
「紅雀」
 振り下ろされる大剣をやすやすと受け止めるのは、もち手のいな
い刀。それは空中でヒューゲルの太刀筋を受け止めると、まるで力
の差を感じない動きで横へといなした。
 咄嗟に体勢を整えるヒューゲル。その姿をキルケは、ただただ冷
たい眼差しで見ていた。
「ナナセはどうしやがった……!」
「……緑の一族。なにゆえ魔族を裏切ったの?」
「答えろ……! 大魔導師!!」
 再び、大きく斬りかかる。
 その刀身を受け止められ、一瞬だけ動きが止まる。
 キルケはその隙を逃さないと言わんばかりに、その手をヒューゲ
ルのアゴへと沿わせた。
「……黒い私のため? ならばニヴルヘイム戻りなさい。黒い私も、
私も同一なのだから」
「ちげぇ……アイツはテメェみたいなヤツとは違う!」
 アゴに添えられた手を払い、一気に後方へと跳ぶ。
 まだ諦めてはいないのだろう。その闘志に燃える青い瞳が淡い光を宿す。
「――滅びた緑の一族。ベレスは私に忠誠を誓ったのを忘れたの?」
 遠い、遠い過去の盟約。
 ニヴルヘイムに現存する色の一族のすべてが、この盟約に基づい
て彼女に忠誠を、アスタロトに忠誠を誓っている――だが、彼はニヴ
ルヘイムを出た。
 見せしめとして一族郎党すべてが抹殺されたことを知りながら。
 それでも彼はニヴルヘイムに戻ろうとはしなかった――否、それゆえ帰ら
なかった?
「オレはテメェの復活が正しいなんて思ってねえぞ……!」
「――それと、ニヴルヘイムを出て行ったことの何の関係があるというの?」
 キルケは小さな声で、それでも頭の中にズンと響くような声音で告げていく。
「ニヴルヘイムに残って直接、黒い私を殺せばよかったのに。
 そうすれば一族は滅ぶこともなく、あなたは裏切者の汚名をきるこ
ともなかった」
「ちげぇ」
 ヒューゲルが唇を噛み締める。
 抑えきれない激情が氷を砕き、散った氷を波が飲み込んでいく。
 その波が凍り付いて、砕けた箇所を修復する。永遠に続くかのよう
に思えるサイクルの中で、彼は食い縛っていた歯から力を抜いた。
「オレは――魔族に利用されて、生まれた理由のすべてを奪われる
のを阻止したかっただけだ」
 掠れた声。
 シュテルンが軽く目を見開く。
「ヒューゲル……なんで、なんでオレたちに相談しやがらなかった……!」
「できっかよ! テメェらは所詮アスタロトの狗だからな。
 だったらオレ一人で――あのガキを鎖から解き放ってやらねーとな!」
 再び振り上げられる大剣。口の中で何かを紡ぎながらヒューゲルが走る。
「やめろ、ヒューゲル! 勝てるわけねぇーだろ!!!」
 絶叫のようなシュテルンの声。
 それでも彼は足を止めず、走る。振り上げられた大剣が淡く白い光
を帯びて、その唇が紡いでいた言の葉が外へと漏れる。
「それは大いなる恵み。
 万物に与えられし光に焼き尽くされよ――罪人!」
「……くだらない」
 シュテルンは目を見張った。
 魔族が扱うことの出来ない光の術――今では法術と呼ばれるように
なったそれを使役しているヒューゲル。その法術の前に臆するどころか
苛立った様子で杖を振り上げるキルケ。
 二人の視線が交錯する。
「――風精王!」
 初めて聞いた、キルケが声を張り上げる瞬間。
 天から降り注ぐはずであった光の雨全てが――消し去られる。
「…………はは……すげぇ……」
 シュテルンは力のない声で、そう呟くことしか出来なかった。
 あまりにも、差が大きすぎる。
 時代の差――力の差。
 それでもなお、足を止めないヒューゲル。振り下ろされる大剣、風精王
の力を持っても吹き飛ぶことのない信念。
 すべては、墓守として――幼い頃より知っていた、名も知らぬ少女の運
命に反感を覚えた時より根付いた気持ち。
 同族を想う気持ちよりも強く、敵対する種族に生まれる理由をも知って
いたからこそ――彼は戦う道を選んだのだろう。
 俯いて、シュテルンは小さな声で呟いた。
「んなことしたって……アイツは喜ばねぇよ……!!」
 紅雀を振るうキルケの後ろ姿に七瀬夕莉の姿が重なる。
 幾度となく殺そうとしたのも、幾度となく人間側へ連れて行こうとしたの
も、そのすべては彼女を想っての行動――通じなくても、その信頼を壊
せればよかったのだろう。
 憎めばいい。
 魔族を、運命を。
「……ヒューゲル……!」
 シュテルンは顔をあげた。
 キルケと鍔迫り合いをしているその男へと目を向ける。
 赤い瞳でまっすぐに睨んで――
「これが――ナナセが選んだ選択肢の先にあった答えだ。
 テメェにゃあ救うことなんてできねぇーんだよ!」
 思い切り氷の地面を蹴る。
 散った氷の破片が波間に飲まれるよりも前に、彼の足は前へと飛び出す。
 軽く飛び上がり、キルケを飛び越え――
「――――――」
 ヒューゲルの傍で何かを囁いて、
「諦めねぇ……からな!」
 その体を海へと落とす。
 白い泡が凍り付いていくのを見下ろしながら、彼はキルケへと声をかける。
「早いところ、法術士を沈めましょう――大魔導師」
「――愛されたものね。黒い私も」
 何かを考えているのか分からない声。
 キルケの声が横を通り過ぎていくのを感じながら、シュテルンは波間
に消えたかつての友を想う。狗――と言われて、何も返せなかった。
 盟約に縛られて生きるのだと、思った。
 一番年の若いメーアですら歯向かったというのに。
 シュテルンは何も言わずに、白い船を仰いだ。
 ――これを沈めれば、きっと終わるだろう。けれど。


 何が、始まってくれるのだろう。




「こんにちは。大魔導師さん」
 船の上には、涼しい顔をした法術士たちが揃っていた。
 その中央にいる美しい女性へと目をやって、キルケは軽く顔を顰める。
「私はあなたの顔があまり好きではないようね。
 ――早く終わらせましょう」
 杖を振り上げる。
 それとほぼ同時に法術士たちが祝詞をあげていく。
 淡い光が周囲を包んでいくのを見たシュテルンは吐き気のようものを
覚えながら、それでも通常の魔族よりもずっと軽い症状に感謝した。
 純粋な魔族であれば、この光を浴びた所で指の一本すら動かせなくなるはずだ。
 それゆえに――彼女は大群を率いてこなかったのだろうが。
「――私は法術士の長を務めますティファ=レトミカ=エルオール……と」
 ティファと名乗った女性の言葉が終わるよりも前に、キルケの放った
魔力の塊が法術士の一部を消し去る。
「ずいぶん、嫌われたようですね」
 金色の鈴が涼やかな音色を奏でる。
「あなたの顔を見ていると、とても腹立たしくなるの――目障り、なのね」
「私はあなたのことを想っていますよ――気が遠くなるくらいに」
 何かが、割れる音が聞こえた。
 漆黒の双眸を細めたキルケが声を低くし、その手を天へと掲げる。
「水精王――」
 その呟きとほぼ同時。
 船底を突き破る、海水で構成された右腕が姿を現した。
 海水の雨が降る。船が破壊され、あとは沈むしかないというのに、法
術士たちは気持ちが悪いくらいに冷静に、祝詞を唱えつづけていた。
「……無駄だと理解しなさい」
「お連れの魔族には多少なりとも効果はありますよ。
 ――白の一族を潰せたならば、戦力的にも楽になりましょう?」
「グレイ!」
 凛とした声。
 その声に応えるように、数多の羽音が聞こえる。
 それらは空から一気に降りて、
「食事の時間だよ。みんな」
 グレイの掛け声を合図に、いっせいに襲い掛かる。
 血を吸われて次々と倒れていく法術士たち。数は減れども、祝詞の声
はあがっている。
 シュテルンは法術とは違う吐き気を覚えた。本当に人間かと――
「ふふ……今回は私も乗り気ではないのです。
 ですので――潔く、沈みましょう? 大魔女キルケ様……
 いつか、私のことを、思い出してくださいね」
 水精王の腕が、ティファを――法術士たちを飲み込んでいく。
 激しい音を立てながら崩壊していく甲板の上で、キルケはとても冷たい
表情を浮かべていた。
 勝利を喜ぶわけでもなく――ただただ、冷たい。


 ――この船が沈んだ数日後、火の国の王より休戦の申し入れが入る。
 事実上、戦争は終わりを告げた。
 それでも、キルケの表情は冷たいままであった。
 まるで――彼女の死の間際のように――――――――――――――



 ――考えてもみてくださいよ。
 せっかく奇跡的に出会ったのに敵同士なんてつまんないじゃないですか。
 風変わりと思っていいですよ。
 そうでもないと愚かな王にはついていけません。
 あなたもそう思うでしょう?
 悲しい再会の人。