かつてそこは彼女が住んでいた。
 日々、小さな精霊たちとの会話を楽しみ、時折り贈られる贈り
物を飾ったりもしていた。時には他の魔族たちとの談笑を楽しみ、
時には軽い茶会なんかもしていた。
 当時より殺風景なその部屋の片隅には、誰からの贈り物だろうか?
 封を開けていないいくつかの箱と、ドライフラワーに加工された花々
が置いてあった。
 衣服は当時の彼女よりも多く、しかし袖を通したのはほんの数着だ
けなのだろう。
 まるでそれ自体がインテリアであるかのように、無造作にかけられ
ていた。
 ベッドはメイドが――クラリスが整えたのか綺麗になっている。
 彼女は――キルケは、何も言わずに当時と同じものを使用してい
るカーテンへと手を伸ばした。
「懐かしいわね……この匂い」
 小さく囁いて、カーテンに付着している当時の想いを回収する。
 これは、遺しておいていいものではない。持ち主が責任をとって始末
するべき感情。あの頃に失くしたモノの一つを手にして、彼女は唇に薄
い笑みを浮かべた。
 窓の外には美しい景色が広がっており、とても戦争中には思えなかった。
 天使とは違い、人間たちはニヴルヘイムの自然を傷つけるよりも前に
殺される。もう、あの景色が失われることはないと思ってもいいだろう。
 敵の弱体化、それに伴った魔族の弱体化――最初こそは歯がゆく感
じたが、当時よりも数はいる。人間たちも数こそはそろえているが、その
単体の力は微々たるもの。
 魔族の敵ではないと考えてもいいくらいに。
 それでもこんな苦戦を強いられているのは、やはりタナトスの消失にあ
るのだろう。
 ――王が参戦できない。
 確かに単純な戦いとなれば、七瀬夕莉でも十分に戦えただろう。しかし、
彼女の意志は王と共にある――争いを、望まぬ王の下に。
 ゆえに彼女に迷いが生まれた。
 血に塗れた手を否定するようになり、その心の奥底で戦いを拒否し始め
ていた。
 真は――ネビロスはそれを察知していたのだろう。だからこそ、彼女を捨
てることを決意した。過去の記憶を現世へと蘇らせ、この戦いに終止符を打
つために。
 王の参戦できぬ魔族を、勝利に導くために。
「……アスタロト様と、あの現魔王陛下は違い過ぎるのを……気付くことがで
きなかったのね。
 ナナセ=ユーリは」
 同じ、魔力を持たぬもの。
 同じ、精霊を魅了するもの。
 けれど根本的に違うのは――
 魔神王アスタロトは、犠牲を出さないために戦うことを選んだ。
 魔神王の転生体である深山結梨は、目の前の犠牲を見て争いを拒否した。
 一を捨て、百を助けることを選んだアスタロト。
 一を守るため、百を犠牲にさせることに気付かぬ深山結梨。
 その選択が――守るべき一の一つであった、七瀬夕莉をも殺すことになっ
たというのに。
 キルケは鏡に映る自分自身の姿に苦笑を浮かべた。
「……あなたは、何を守りたかったの?」
 傷だらけの体。
 治療を拒んだのだろうか、数多の傷痕の残る体には血の臭いが染み付いていた。
「否定はしない。けれど――肯定もしない。あなたの選択は」
 同じような人生を歩む予定だった少女。幼少時の大半は似ていた――まる
で、繰り返すように、親の愛を得られずに生きていた。
 同胞に嫌悪され、孤独に苛まれ、心を凍らすことで生を保つ。
 救われるのは――王の下にいるときのみ。
 キルケは漆黒の双眸を細めた。
「……チキュウ……ニホン……この世界で生きていくための手段を失うのに
時間はかからなかったわね。あの国の精霊は、もう――力という力が残って
いない。
 ナナセ=ユーリがあそこまでの魔術を発動できたのが奇跡のよう……
 魔族はあの国では生きていけない。あの、風変わりな男を除いて」
 七瀬夕莉が最後に出会った、あの男。地球の裏を統べるという魔族――あ
の世界の魔族は地球の奥底に住んでいるのだろう。地上は、あまりにも汚れ
すぎた。
 いつでも破壊できる位置に――――
「……」
 ふいに、ノックの音が聞こえる。
 キルケはふけっていた考えのすべてを消し去り、その音のする方へと歩む。
「はい」
「私です、ネビロスです」
 懐かしい声。
 懐かしい――
「……ネビロス様……」
 ドアを開ければ、そこには姿は違えど、当時の面影を残した少年が立ってい
た。眼鏡の奥の瞳には微笑が浮かべられ、最後の記憶よりも数段若いその顔
を軽く見詰めた。
「……会いたかった」
 囁かれる言葉。
 それは、永い、永い、月日を経てようやく再会できたからこその言葉なのだろ
う。キルケはその場で跪いた。
「永き年月を、ネビロス様お一人に任せてしまって申し訳ありません。
 私の魂の修復に時間がかかりすぎてしまいました」
「けれど、貴女は私たちが地球に行くことを決意したとき、ついてきてくださいま
した。
 感謝しています――傷付いた魂のまま、それでもなお私たちを守ろうとしてく
れたことを」
 優しい、微笑。
「顔をあげてください。私たちに階級差はないはずですよ」
 大魔導師と大賢者――ともに王の傍らに立つ者。
 キルケは顔をあげ、ゆっくりと立ち上がった。黒い髪が揺れ、失った時間が
流れ出すような気すらする。あの、気の遠くなるよな古の時代に止まった時間
が――動く、気がした。
「……私も――」
 微笑を浮かべる。
 最期の時には浮かべることすら出来なかった。顔の筋肉のすべてが凍りつ
いて、心が凍り付いて、どんな表情も、声の抑揚も、すべてが失われた状態で
別れてしまった。
 それを消し去るかのように、彼女は優しい声音で告げていく。
「私も、会いたいと願っておりました……平和な時代に会いたいと。
 共に……あの花を、見たいと願っていました」
 白い、綺麗な花。
 それは二人が別れたときにも咲いていた。出会ったときにも咲いていた。
 あの頃はそれを見ることも叶わなくて――ただ、枯れ果てていくのを見るだけで。
 ようやく見れる――ようやく、二人で、あの花を。
「美しい夜。どうか、手を」
 差し伸べられる手。
 その手へと、自らの手を重ね合わせる。
「……ずっと……貴女のことを覚えていました……そして、これからも」
 引き寄せられ、その腕の中に抱きすくめられる。
 柔らかく、優しい匂い。あの頃と変わらないもの。
 キルケは腕の中で目を閉じ、至福に満ちた笑みを浮かべた。
「ニヴルヘイムに平和を。
 あの美しい時を……とこしえに」
 背中に、手を回して。
 確かめるように。
 そこにいると、ここにいると。
 互いを確かめるように抱き締めあう。
 耳に心地良い心臓の鼓動。ひと時の安息を――抱いた。


 二人は、その唇に誓う。


「アスタロト様が愛したニヴルヘイムを、守り抜くことを」

「アスタロト様が愛したニヴルヘイムの景色を守ることを」


 合わせられた手の平。
 それはまるで儀式のように。


「双紅の大魔導師キルケは誓う」
「大賢者ネビロスは誓う」


 精霊たちが歌う。
 それはどこまでも流れ、響いて。


「今は亡き、その魂に」
「今は亡き、その魂に」


 精霊たちの歌声に、蝙蝠たちがざわめく。
 その中に佇むグレイは、海を進んでくる船に気付く。あの、白い船は――


「人間……」
 グレイの赤い双眸にかすかな野性が宿る。
 鋭い牙を剥き出しにして、大きくはばたく。
「キルケ様に知らせないと。人間が――攻めてきたって」
 静かな口調。それは彼の願いが叶ったことを意味する。
 出会えた恩人。出会えた初恋の人――その手で、その声で、その目で、成長
を感じて欲しくて。待っていた、止めていた。時間を、永い、永い、時間を。
 流れ出した時間を感じながら、彼は蝙蝠の群れを連れて、城へと飛ぶ。


 戦乱の終わりを予感しながら――――――――