大きな魔力のうねりにその場にいた全員が息を呑んだ。

 魔力を持たず、感知することも出来ない筈のアシュレイドですらも

咄嗟に頭を抱えてその場に蹲っているほどに、そのうねりは強大な

ものだった。

 そのうねりはまっすぐにキルケを狙い――

 憎悪の咆哮を上げていた。

「……弱体化したものね」

 小さく呟いて、その手の平を前へと伸ばす。刹那、その手の平に

吸い込まれるようにして消えた、魔力のうねり、それを生み出して

いた魔力の塊。

 一瞬にして周囲が無音に満ちる。

 しかし、それと同時に黒い霧がキルケの足元から沸き上がる。

 その闇に紛れて、華奢な人影が赤い絨毯の上を駆けた。軽やか

な足音が室内に響き渡る。

「我が望むは地獄の業火!

 闇より来たれ、煉獄の焔!!」

 放たれた言の葉は、黒い霧すべてを覆い尽くすほどの業火を降

り注がせる。通常と同じ言葉を使用しているというのに、細かいア

レンジが施されている。

 よほどの術者なのだろう――ヒンメルが眉間にシワを寄せる。

 アシュレイドと瓜二つな表情を浮かべながら、彼は背後で抜き身

の大剣を振りかざしている、四英雄の子孫の一人を振り返った。

「ゾンネ! やめなさい!!」

 張り裂けそうな、悲鳴に似た声は届くことなく。彼は刃を向ける相

手が古の大魔導師だということに、臆することなく、黒い霧の中にい

るキルケだけを包むように展開された紅蓮の業火へと駆けていた。

 二つの人影が交差する。

「風精王」

 静かな声。

 それが紡がれると同時に、魔力で紡がれた風が――魔力によって、

集められた風に属する精霊たちが突風を生み出す。それは彼女の放っ

た炎を掻き消すには巨大すぎるほどの力だったのだろう。

「きゃぁっ!!!」

 甲高い悲鳴と共に、華奢な体が壁へと叩きつけられる。どれほどの威

力だったのか、叩きつけられた壁が大きく凹み、周囲に大きな亀裂を走

らせている。

 大柄であり、同時に男性であったゾンネは壁には叩きつけられなかっ

たが、風によって細かい裂傷を全身に受けていた。

「メーア!!」

 喉が引き裂かれそうなほどの声。

 その呼び声に、反応しようと薄っすらと目をあけた女性は――メーアは、

口から少量の血を吐いた。

「……エリゴールか」

 掠り傷の一つも負わずに、無表情なままキルケは、メーアを見ていた。

「ナナセ=ユーリの仇討ち?」

「……違い、ます」

 ふらふらと、立ち上がる。

 体中の骨が悲鳴をあげているのだろう、すぐにその場にヒザをついて苦

痛に顔を歪め、呼吸を整えることもままならないようであった。

 だが、彼女は鋭い眼差しでキルケを睨みつけ、

「エリゴールの……仇討ちです。望まぬ婚姻を、結ばされた……わたくしの

……先祖の」

「望まぬ婚姻? エリゴールはネビロス様に――」

「双紅の大魔導師キルケ! あなたの死後、ネビロスはエリゴールを魔神

王アスタロトの嫁としたのです。強い魔力を持つ、エリゴールであれば強い

御子が生まれると! エリゴールの意思を無視して――」

 おかしな方向を向いている指で印を結ぶ。

 掠れた声で言の葉を紡ぐ。

「あなたの死を、エリゴールの責任として。ネビロスは、エリゴールの想い人

であったあの男は、私怨からエリゴールを売ったのです! 彼女は死の間

際に言いました!

 いつの日か、大魔導師が転生する。そのときは、この恨みのすべてをは

らすと――」

 再び放たれる、魔力の塊。

 それは地を這い、キルケへと迫る。だが彼女は指一つ動かさぬままに、

唇を震わせた。

「反逆は――死に値する」

 凄まじい魔力が放出される。

 絨毯がめくれ上がり、引き去れる。カーテンが引き千切れ、窓ガラスが粉

々に砕ける。

 亀裂の入った壁が大きく凹み、天井から吊るされているシャンデリアが跡

形もなく砕け散った。

「やめ……て、やめてくれえぇぇぇっ!!」

 ゾンネの絶叫が響き渡る。

 しかし、それすらも呑み込む音のない風。

 それは、長い、一瞬だった。

 目を開けた時には、部屋の中は瓦礫と焦げ痕ばかりが目に付いて、うつ

伏せに倒れているヒンメルやアシュレイドも生きているのか、疑わしい状況

であった。

 咄嗟に防護壁を張ったゾンネは、炭のような姿になったメーアへと駆け寄った。

「メーア、メーア!」

 触れて、感じる。その呼吸が止まっていることに。

 その体温が失われ始めていることに。

「メーアぁ……」

「咄嗟の判断力は認めるわ。サルガナタス」

 背後に立つのは、古の大魔導師。

 ゾンネは息を呑んだ。憎悪が込み上げるのに、何も出来ない。

 この腕は数えるのが面倒になるほどの強敵を斬り伏せていったというの

に、この見目は幼さを残す顔をした少女を、たかだか人間を斬ることも出

来ずに、震えている。

「反逆は、死罪だと教わらなかったの?」

 背筋を冷たいものが走った。

 死ぬのだと思った。

 仇討ちも果たせずに――――

 

 鈍い音が響いた。

 

 

 

「……人が、別件で苦労してるときになぁーにやってんだ! テメェらは!」

 聞こえてきた罵声に彼は目を開ける。眩しい――そう思うよりも前に、全

身に走る痛みに顔を顰めた。その様子に声の主は不機嫌な顔をより一層

不機嫌なものとした。

「弱体化した魔族が、全盛期に勝てるワケねぇだろ。何してやがんだ!」

 はっきりと、聞こえる声。

 痛みの走る体を暖かい光が包み込んでいく。安堵の音色の中、彼は気

の抜けた声で告げた。

「……生きている……?」

「ギリギリだっつの! オレがあと数分遅かったら全員死んでたな」

 胸の前で腕を組み、ふんぞり返っているシュテルンへと目を向けて、ゾ

ンネはゆっくりと体を起こした。相変わらずの回復量――死を覚悟したと

いうのに、傷痕一つ残さずに治してしまった。

「……メーアは?!」

 紫苑の双眸を見開いて、シュテルンの肩を掴む。だが彼は驚くわけでも

なんでもなく、いつもと同じ性格の悪そうな笑みを浮かべていた。

「さーな? バカなことするヤツにゃ教えてやんね」

「シュテルン!」

 掴んでいた場所を肩から胸倉へと移す。魔族の男のわりには身長のな

い、シュテルンは爪先立ちになりながらも、その笑みを崩すことはなかった。

 しかし、魔術を操るその指先は限界を示しているかのようにピクピクと細

かい痙攣を始めていた。

「生きてる。重傷だけどな」

 彼の真紅の瞳が指す方向を見やれば、白い光に包まれて眠っているメー

アの姿があった。その皮膚は所々が焼け爛れ、つい先ほどまでの見目麗し

い姿とはまったくの別人に見えた。しかし、ゾンネはその姿であれど、彼女の

胸が呼吸に合わせて上下していることを確認して、安堵の溜息をついた。

 その様子にシュテルンは苦笑を浮かべた。

「健気なこっだな――メーアはテメェの感情なんて気付いてねぇのによ」

「それでも……」

 シュテルンをおろし、眠っているメーアへと近づく。

 その顔が酷い火傷で爛れているのを、目に焼き付けるように、自らの弱さを

悔いるように――その場に腰を下ろした。

「それでも、私は…………」

 消え入るような声で。

 その胸を抑えて。

 どこまでも辛そうに彼は呟いた。

「彼女が……幸福になってくれるのなら……」

 その背中に、彼はなんて言葉をかけようと思ったのか。

 白い髪が自身の放出する魔力で揺れる。

 真紅の瞳は何か、懐かしいものを見るようにして細められていた。

「……女が幸せなら、テメェは死んだっていいか?」

 低い声。

「知ってっか? そんなん、男の身勝手な我侭ってことによ」

「……シュテルン。私は――」

「テメェは若いんだよ。頭が特にな! 少しはオレを見習え、そして敬え」

「…………断る。私には私の、やり方がある……」

 ゾンネの言葉にシュテルンの頬が軽く痙攣した。

「頑固頭。ハゲちまえ」

 悪態を吐いて、シュテルンもその場に座り込む。

 気を失ったままのヒンメルとアシュレイドは目を覚ますどころか、時折り寝言

のようなことを呟いている。それが悪夢から来るものか、潜在的な何かに怯え

ているのかは分からなかったが、二人揃って同じ夢を見ているのは間違いな

いのだろう。

 同じ単語が出てきている。

「……番人……」

「嫌……番、に……ん」

 それが何かを知ることはないのだろうとシュテルンは思う。

 黒の一族に自分の知らない事情があったように、青の一族にも自分が知ら

ないことが多々あるのだろう――自らもまた、そうであるように。

 気の遠くなるような長い年月の間に魔族は弱体化し、同時に神々との戦争

の時代とは違う存在となったのかもしれない。古の大魔導師や、大賢者が呆

れるほどに。

 シュテルンはゆっくりと、それでも確実にメーアの火傷を治癒しながら目を閉じた。

 闇の中で、声を聞いた気がする。

 その声は見つけたばかりの手紙を朗読して――残される立場の自分に新

しい役目をもたらす。

 

 ――僕がいなくなることがあったら子供たちを頼んだ。

    お前にしか言わない。お前にしかできないからな。

    守ってくれ。守りたいと思ったすべてを。頼んだからな――

 

 二年でよく覚えたものだと。

 少しクセ字な手紙を懐にしまって、キルケに感付かれないようにスラムへと

走った。雨の中で聞こえた慟哭――その主と、妹に治癒術を施して帰還した。

 それが、彼女の望みなら。

 ここにはいない、悲しい人形のいた証ならば。

 自分もまた、彼のように――ゾンネのように、健気なまでに守るのだろう。

 

 

「……オレも、若いな……」

 

 ひどく、泣きたいと思った。

 ここにあなたはいないのだと――思い知って。