死の雨が降り注いで。
人間たちが死に絶える。
凱旋など行なわれる時代ではなく、兵士たちは各々の帰路へとつく。
時代の変化に違和感を感じたのはほんの一瞬のことで、彼女はすでに現
在というものを受け入れていた。
荒れ果てたスラムの街を歩き、建物の影からこちらを覗いている存在
に興味も示しさえせずに。ただその手に使い慣れた杖を握り、その周囲
に懐かしい太刀を舞わせ。
まるで、長い間ここで生きていたかのように歩く。
「あ、あの……」
ふいに聞こえた声に彼女は視線を下げる。そこには木箱の陰に隠れな
がら、それでも必死で顔を出そうと努力している小汚い少年がいた。そ
の顔には泥が付着し、子供であるという証の長く尖った耳は腐食が始まっ
ているようだった。
長くはないのだろう。自然の中で死ぬということはこの幼子は栄養も、薬
も足りていない場所で生きていけるほど強い魔族ではないということ。
あの頃とは違う――一瞬だけ過ぎった考えを振り払うように、キルケは口
を開いた。
「用件はなに」
冷たい声に少年が体を震わせる。
オドオドとした目でキルケを見上げ、何かを探すような目の動きをする。そ
の顔にあるはずの面影を探し、その身に纏う漆黒の衣に泣きそうな顔をする。
「あな……たは、ナナセ様……?」
震えた声に、周囲の空気が緊張する。
その緊張にキルケは納得する。先ほどからこちらを見ている視線の数の
理由を、その意味を。
あの愚かな娘――ナナセ=ユーリは孤児らの住むこの場所に訪れては、
治療薬を与え、食事を与え、時には教育を施していたという。無意味なこと
を繰り返し、彼女自身が使うはずの時間を浪費していた。
その時間があれば、人間にここまで攻められるよりも前に手を打てただろう。
大魔女――大魔導師は国の兵器。
ただの一人になろうとも、その命と引き換えに敵を滅ぼす力程度は持っている。
――大天使を屠った、自分のように。
キルケは表情を消してオドオドとした表情を浮かべている少年を厳しい視
線で睨んだ。
「ナナセ様なんですよね! ぼくたちに救いをくれる……」
ゆっくりと、歩き出す。
何を見ているのか分からない瞳はまっすぐに城を――かつて自らが日々
の生活をおくり、生きていた場所を見ていた。小さな少年の姿など見えない
かのように。
「ナナセ様! どちらへいかれるのですか! ぼくの妹が、妹が大変なんで
す。助けてください、ナナセ様!!」
悲鳴が聞こえる。
しかしそれもいずれは風に消えて無くなる。
少年の命と同じように――
キルケは自分であり、同時に自分ではない存在を呼ぶ声から意識を離し、
その代わりと言わんばかりに集まってきた動物たちへと、優しげな眼差しを
向けていた。
「子孫なの? あなたたちは」
小鳥がさえずる。
あの頃とは姿の違う動物。しかし、その心のすべては彼女へと向けられて。
かの時代に存在した救いを今でも感謝し、子々孫々伝えていく。
たとえ言葉は通じずとも――
「聞こえる。あなたのたちの声……懐かしい、匂いがする」
双眸を閉じれば、あの血と腐臭に塗れたあの時代の臭いがする。とても苦
痛に満ちて、とても苦しい日々が続いたこともあったけれど。たとえ消えるこ
とのない傷を負う事になっても、たとえこの四肢がもがれるようなことがあっても。
その結末に、自らの死が待っていたとしても――
あの時代のすべては、幸福になるための一歩だった。
その一歩を踏み出すことができた、その一歩に深く関わることのできた、あ
の日々を誇りに思う。
魔神王と共に歩めた日々を――
「フェンリルは元気にしてる? 狗零はずいぶんと変わってしまったけれど、
フェンリルはどうなのかしら」
微笑が浮かべられる。しかし、次の瞬間にはその笑みが消えていた。
城門をくぐり、緊張した面持ちの兵と目を合わせることもなく歩いている。そ
の足音が響けば、近寄ってきた動物たちは敬意を払うかのように頭を下げ、
各々の足の速さで去っていく。
静寂が――支配する城内。
あの頃とは違うものがまた一つ。
勝利すれば喜んだ、手柄をどれだけ立てたと騒いだ。
その声すら聞こえない。
まるで喪に服しているかのように。
「あっ――あ、あの……」
一番最初に目に付いたのは、黒髪の少年――深山結梨という、アスタロト
の魂を受け継ぐ人間だった。彼は酷く沈んだ面持ちでキルケへと目をやり、
言葉を探すような素振りを見せている。
「陛下」
落ち着いた声音。けれど、その目には微かな喜びが――再会を喜ぶかの
ような表情が浮かべられて、唇が僅かに緩んでいた。
「再び、お会いできたことを光栄に思います。再び、このニヴルヘイムに安息
をもたらすことを約束いたしましょう……この名にかけて」
「ちょっと待って!」
両手の平をキルケの顔へと向け、言葉を止めさせる結梨。その顔には何か
を悔いるような表情と、何かに立ち向かおうとしている表情が入り乱れ、酷く不
安そうな顔をしていた。
「えーと……」
頬を指先で掻き、言葉を探そうと唸り声を上げる。
律儀に彼の発言を待っているキルケの周囲で夢浅葱が揺れていた。
「あぁ。そっか。まずは、ありがとうだ」
「なぜ、陛下が私などに?」
聞き返すキルケに結梨は首を大きく横に振った。
「違うだろ! 七瀬はオレを陛下なんて呼んだりしないだろ!!
――って、あ。違う」
自分の言葉を自分で訂正し、彼は何度も悩むような仕草を繰り返して、
ようやくその言葉を紡ぎだした。ぽつりぽつりと、まるで罪を告白するかの
ように。
「駿河から聞いたんだけどさ……オレ、魔神王アスタロトの生まれ変わりだ
かなんかで、オレを守るために七瀬が無理して地球にきたって。駿河もそ
れ追いかけてきたけど……七瀬は、ずっと、オレを守ってくれてたんだよな。
オレ、ずっと男だから七瀬はオレが守らないと! って思ってたけど、逆
だったんだな。
……ありがとう。すごく、嬉しい……」
「陛下……」
「だから――」
俯いていた顔をあげる。
涙の浮かんだ漆黒の双眸。
震える指を握り締めて、唇を噛んで。
その言葉を口にする。
「キルケ……さん。オレは大丈夫だから。この国も大丈夫だから……七瀬
を返してください。七瀬はオレの大事な友達なんです……かえしてください
……お願いします……」
声が震えていた。
涙が零れて、床に上に雫が転がる。
キルケはその言葉に表情を崩さぬまま、無表情で口を開く。
「陛下。黒い私は私の中で消えました。私と、黒い私は同一です……陛下
ならお分かりになられると――」
「わかんないんですよ……オレ、七瀬とは思い出がたくさんあるんです。
いっしょに幼稚園も行ったし、一緒にプールだって行きました。オレがリ
レー始めたら、七瀬も練習に付き合ってくれたり。
たくさん、たくさん二人で遊んだんです。
オレの目は、七瀬が笑ってる……思い出しかっ……」
「陛下。私はここにいます」
「違うんだ……違うんです……」
次々と溢れてくる涙。
それを手の甲で拭いながら、上擦った声ですがるように彼は告げていく。
「七瀬との思い出はあっても……キルケさん、あなたは……違うんです。
七瀬を、かえしてください……お願いします。オレ、がんばるから……
ちゃんと、戦争も止めるから。
七瀬を、オレの……大事な、大事なっ……ともだぢをかえじでぐだざい……」
酷い声だった。
それでも――含まれた想いは伝わってくる。
想われていた、人形。
あの子供たちのように、魔神王の転生体はあの人形を想う。
キルケは表情を消した。
「たとえ、魔王陛下の頼みとしても今、それをきくことはありません」
夕莉と同じ瞳でありながら、彼女とは違う目をする。とても冷たい――
凍てつくような、すべての命を奪うかのような瞳。それはその奥に微かな
光を宿して結梨を見ていた。
「私はニヴルヘイムを救うために現れました。それはあなたを守るという
ことと同意義です。
黒い私ではあなたを守ることができません。ですので、ナナセ=ユーリと
いう存在は不必要です」
「そんなこと……っ。今まで、七瀬は!」
「不必要です。黒い私は甘すぎます」
淡々とした声。
凍てついた眼差し。
漆黒の髪の先端が赤く見える――遠い昔の景色が見える。
「失礼します――陛下」
背を向けて、歩き出す。
靴底が床を擦る音が聞こえる。
とても、とても――
悲しい音だった。
知っている人が消えていく音。
「……七瀬。ごめん……ごめん……オレのせいで…………
もう、あえないのか……? 七瀬ぇ……」
この記憶からも、いつかは消えてしまうのだろうか?
あの――笑顔は。
広間には四英雄のうち、二人がいた。
「サルガナタス。他の二人は」
近くにいたゾンネへと問うと、彼は赤い髪を手串で整えながら首を振った。
「メーアはじきに戻るでしょうが。シュテルンは行方がわかりません」
「シュテルンなら、先ほど戻ってまいりましたよ。すぐに出て行ってしまい
ましたが」
目を閉じたままヒンメルが呟く。その言葉にキルケはすこしだけ顔を顰
めた。
「アガレス。あなたの邪眼は――」
「キルケ様。たとえキルケ様であろうとも、この目の事は口出ししないでい
ただけますか? これは我ら青の一族の問題です。
そして、当主である私の問題です」
静かな――それでいて、力強い言葉にキルケは双眸を細めた。それ
が何を見ようとしているのかは分からなかったがゾンネは、一瞬だけヒ
ンメルが肩を震わせたのを見逃さなかった。
ニヴルヘイムきっての問題児――前魔王陛下にも従おうとはしなかっ
た、怖いものしらずの青の一族当主を慄かせる力。その片鱗を見た気がした。
「ヒンメル、すいません。魔技士を探しているのですが――」
大きな扉が重々しい音を立てて開く。そこには、破損した義手の破片
を持って歩いてきたアシュレイドの姿があった。その顔には疲労が滲み、
その全身には何者かの返り血を浴びていた。
「アシュレイド――」
ヒンメルが何かを言い終わるよりも前に、アシュレイドの視線がキルケ
へと向けられる。
「ユ……」
一瞬だけ、幸せそうな表情が浮かび上がるが――すぐにそれは、打ち
ひしがれたものへと変貌する。彼女は違うのだと、本能が、心が、頭が、
彼という存在の全てが告げ始める。
ナナセ=ユーリではないのだと。
「……ヒンメル……腕を直しに行きたいのです」
沈んだ声で、どこか下を向いて。
告げられたヒンメルは、双眸を閉ざしたまま右腕のない従兄弟へと近寄った。
「ここまで破損していたらもう直せません。新しいのを――」
「いけません。これは、あの人が私のためにと……これ以外では、もう私
の腕にはなりません」
「アシュレイド……」
灰色の長い髪が、アシュレイドの表情を隠す。不機嫌な顔で、常に自分
の欲ではなく全体を見越しての行動をとっていたアシュレイドが、こんなに
も悲痛な声をあげている。
右腕を失ったのはずいぶんと昔で、この義手を使ったのはこのたった一
年と少しだというのに。
彼は最早、それ以外を自らの体の一部とは認めない。
「……ナナセ様が、帰還されるまで……私は――」
「……アシュレイド」
キルケの冷たい声が聞こえる。
その声に顔をあげたヒンメルは、唇をきつく結んでアシュレイドとキルケ
の前に仁王立ちになった。まるで、彼を守ろうとするかのように。
「退きなさい。アガレス」
「退きません」
閉じたままの双眸でキルケを睨みつける。
しかし、彼女の放つ威圧感には勝てぬだろう男にしては細い肩が震え、
噛み締めた唇から血が滲んでいた。
「……アシュレイド。あなたは黒い私の造った腕以外はつけないと、甘えを
言うの? 今が戦争中であるということも忘れ、何をしているの」
淡々と告げられる言の葉。
その言葉にアシュレイドが深く俯いた。しかし、彼はそのまま状態で告げていく。
「この腕は私の絆です。
あの人がいたという、しるしです……これだけは、手放しません」
「……魔族も、ずいぶんと甘いものになったのね」
背を向けて、キルケは唇を震わせる。
「ナナセ=ユーリの存在は大きな波紋を生み出した……ということかしら」
鋭い風が、アシュレイドが胸に抱いていた義手を、その腕ごと切り刻む。
鮮血が舞い、塵も残さずに消えた義手を、しるしを、彼は限界まで見開い
た双眸で見ていた。
「あ――――」
「忘れなさい。今はそのような時ではないはずよ」
冷淡な言葉。
それがアシュレイドの耳に届いて、余韻を残すのとほぼ同じ頃だった。
巨大な魔力の塊が放たれたのは。