紅の空。

 数多の悲鳴が響き渡った嘆きの空。

 海に浮かぶは炭と化した人間の骸。

 それらが紡ぐ命の鼓動がすべてを断ち切らんが為。

 それぞれが守れと命じられた地方に、英雄が子孫が降り立つ。

 

 

 東西南北に割り当てられし、色を継ぐ者たち。その中央に佇むは、

数多の魔族が暮らすニヴルヘイムにおいて、もっとも希少な――彼

一人しか存在しない、ヴァンパイア。その傍らに立つ、キルケは凛と

した声で祝詞をあげた。

「大地を守護せし魔獣。我はキルケ――」

 ニヴルヘイムの上空に五芒星が浮かぶ。

 それぞれを制御するために配置された英雄の子孫らは、古の時代

に生まれた古代の魔術と、それを扱う大魔導師の力の強さに息を呑

んだ。天使を、一掃した信じられない威力の魔術――今では、扱える

ものは誰一人としていないとされる失われた魔術。

 それを今、こうして目前で見ている――

 現実感のない感覚に悪寒が走る。

 全身を駆け抜けていくキルケの魔力に呼吸が止まるかと思った。

 桁違いの――恐怖以外のなんであるというのか。

 

「東天を守護せし青龍、西天を守護せし白虎、南天を守護せし朱雀、

北天を守護せし玄武」

 渇いた唇が言の葉を紡ぐ。

 その男と比べれば細い手が握り締める杖の先端に光が生まれ、そ

れは徐々に徐々に肥大化していく。

「……キルケ様っ」

 魔力をコントロールしているグレイが悲鳴にも似た声を発する。

 その声に反応することなくキルケは次の祝詞をあげた。

「中央を守護せし黄龍――我が命に背くこと赦されざること。

 我が望みを聞け、さもなくば天を裂くこともやむなしと思え――」

 漆黒の双眸が真紅に染まる。

 刹那、杖の先端から放たれた閃光が雲を裂き、四方へと放たれる。

それは五芒星に十字の傷を走らせる――上空でなおも肥大化する光。

「完成せよ――五芒星の陣」

 その言の葉は始原の言葉。

 その言の葉は終末の言葉。

 肥大化した十字は英雄らの体をめぐり、ヴァンパイアの体をめぐり。

 申し分ない力をつけて大地へと降り注ぐ。

 さながら――光の雨と言うに相応しいであろう。

 それらが降り注ぐたび、大地が揺れる。地表が抉れるかと思うほどの振動

をあげようとも、大地はまったく傷をつけず、ただただニヴルヘイムに似つか

わしくない存在だけが焼き殺されていく。

 誰が言ったか――

 

――これほどまでに、美しい魔術は見たことがない――

 

 

 

 光の雨が降り注ぐ森の中、

「……どうすりゃ、いいんだよっ……」

 頭を抱える人間がいた。

 周囲には焼け焦げた仲間の亡骸。それらに守られれように蹲ってい

た人間の耳に足音が聞こえる。

 心臓が跳ねた、まだ死にたくないと心が叫んでいる。

「……人間、ですか」

 その声の主は言った。

 とても低く、耳に心地良い、魅力に溢れる声だった。

「出てきなさい」

 冷たい響きに人間は息を呑んだ。生きていることがばれている――し

かし、姿をあらわせば殺されてしまう。黙ったまま、やり過ごせはしない

かと淡い期待を孕んだ。

 目を閉じ、息を潜める。

「……逃げてください」

 囁くような小さな声で、その魔族は告げた。

「早く、逃げてください……ニヴルヘイムの外へ」

 苦しそうな声で。悲しそうな声で。

 嫌な臭いを発している仲間の亡骸の間から覗き見ると、その魔族は

腕を抑えて、時折り苦しそうに歯を食い縛っていた。魔族というだけあり、

その容姿は人間より遥かに整っている――人形かと、思うほどに。

「キルケ様の……魔力に、呼応しています……はやくっ、私が……」

 低い、呻き声が上がる。

 人間は息を呑んだ。

 逃げようと足を動かすが、その足は血でぬかるんだ地面を虚しく蹴る

だけ。

 一歩も、前に進めやしなかった。

「……はや…………ぅ、う……あ、うぁぁぁぁぁぁぁ……!!!!」

 腕が、落ちる。

 渇いた音をたてて転がる腕は、作り物なのか一滴も血液を流さないま

まに当人の足によって踏み潰される――妙に、膨らんだ足に。

「どうい……え、え……魔族、って……変身……へ」

 視界が鮮血に染まった。

 その赤が、気が遠くなりそうなほどの赤が、自分のものだと気付くより

も前に。

 人間は、呆然と立っている自分の体を仰いだ。

「あ、あ……おれが、たって……あははははははははははははははは

ははははははははははははははははははははははははははははは

ははははははははははははは」

 狂ったような笑い。

 それはやがて途絶え、骨が砕ける音と、その中身が潰れる音が微か

に聞こえた。

 天から降り注ぐは、亡骸すらも焼き尽くす、光の雨。

 バケモノは嗚咽あげ、すでにヒトとしての形すらも残さない侵入者たち

を見下ろしていた。

 肩から先のない右腕を探すように触れて、その存在が確かにそこにな

いことを痛感する。嗚咽に混じって聞こえる耳障りな呼吸音に、涙が出

そうだった。

「……っ、ぁ……ぅ」

 脳裏に思い描くのは想い人。

 今はいない――消えてしまった、死んでしまった。どこにもいない。

 この腕をくれた、愛しい人。

「…………」

 魔族の男は――五芒星の浮かんだ空を仰いだ。

 震える唇は愛しい名前を囁く。

 

「……ナナセ……様」

 

 

 

 

 人間の王は白いローブを纏った女性の報告に息を呑む。

 全艦隊全滅、生存者は一人としてなし。忍び込んでいた間者の連絡も

途絶えた。

「……忌々しい化け物どもめ!」

 玉座を殴り、王は息を吐いた。

「……法術士を使う」

 小さく告げた言葉に女性が眉を上げる。

「よろしいのですか? 法術士は貴重なもの、いたずらに消費すれば替

えなど――」

「抗うか!!」

「……わかりました。我等法術士一同死地へと参りましょう」

 その場に跪いて、頭をたれる女性。そのヴェールの奥の顔は決して

笑ってはいなかった。ゆっくりと立ち上がり、その背を王に向ける。

「待て」

 呼び止められ、女性は足を止める。しかし、振り返らぬまま――

「そちの名は」

「――ティファ=レトミカ=エルオールと申します」

 告げられた名に興味を示さなかったか、王は何も言わずに黙り込ん

でしまった。女性は――ティファは無言で立ち去った。

 足につけた金色の鈴の音が遠ざかり――やがて、聞こえなくなる。

 誰もいない、無音の中。人間の王は小さな声で、とても小さな声で呟いた。

「法術士さえいれば、魔族など……一網打尽よ……クク、ははは」

 

 

「本当にそう思ってるとしたら、めでたいと思わないかい? クラリス」

 水晶球を覗いていた真が笑う。投げかけられた言葉に、お茶を用意

していたクラリスが困ったように眉根を寄せた。

「けれど、法術士は魔族の天敵ではないのでしょうか」

「まあね。普通の魔族なら、法術で死ぬと思うよ」

 真が目を細める。

 唇に笑みが走り、その手が魔力を帯びる。

「キルケが普通、だと思うかい?」

 振り向いた漆黒の双眸に宿るは強大なる魔力。

「……失礼いたしました」

 静かな声でお辞儀をし、真の手の中にある水晶球を見る。透明なそ

れは、強すぎる真の魔力に耐え切れずに、細かい傷を所々につけて

いる。

 割れるのも時間の問題であろう。

「あの……」

「法術とかいうのが使えても、所詮は人間だよ。ボクと、キルケがいれ

ば……」

 水晶が割れる。

 粉々に砕け、その破片が真紅の絨毯の上に降り積もる。

 クラリスは悲鳴をあげそうな表情を浮かべたが、口から跳び出かけ

た言葉を全て飲み込んで必死で平静を保とうとしていた。

 刹那――

「ネビロス様! わたしの水晶割りましたわね!!!」

 キンキンと甲高い声が部屋へと割って入ってきた。

「ユーリス、落ち着いてください」

 クラリスが宥めようと近づくが、ユーリスと呼ばれた猫目の女性は怒

りをあらわにして、真へと顔を近づけた。

 ふわふわとした金色の髪の毛が、彼女の頭の動きに合わせて揺れる。

「わたしの水晶は決して安いものじゃないんですよ! 先祖代代伝わ

る、立派なものなのに、なんてことをするんですか、ネビロス様!!」

「ユーリス……ヘルムヴィーゲだっけ?」

 真の、眼鏡の奥にある漆黒の双眸が細められる。

 吐き出される言葉に温かみはなく、聞いているだけで凍えるかと思うほど

に冷ややかなものであった。

「そうです! まったく……殺気出したって赦しませんから!」

 後ろで言葉を詰まらせているクラリスと違ってユーリスは頬を膨らませ、

言葉どおり殺気を放っている真から視線をそらさずに次々と言葉を吐き

出していた。

 空気が読めない女というものなのかもしれない。

「だいいち! ネビロス様が遠見をしたいって言うから貸しましたのに、

何で割るんですか! 割りたいならセールで売ってるクズ水晶割ってく

ださいよ!! わたしのは値段がつけられない代物なんですから!

 ご先祖様になんて顔むけしたらいいのでしょう!!」

「これで満足?」

 静かなネビロスの声に、ユーリスは目を丸くした。

 そこにあるのは貸し出した時よりもずっと立派な姿になった水晶球だった。

「……ネビロス様が、修復の魔術を……?」

 ポカンと口をあけてユーリスが呟く。

 大賢者が修復の魔術を遣うなど聞いたことがない――彼は、もっと闘争心

に満ち溢れた存在だと。

「ボクも成長してるってことだよ」

 ニッコリと微笑んで真は立ち上がった。

「あぁ、そういえば……お前は金髪だな」

「はい? そうですけ――」

「ユーリス!!」

 クラリスの悲鳴にも近い声が響き渡る。

 壁に叩きつけられたユーリスは苦しそうに真を見上げている。

「……な、にを……ネビロス、さま……」

 首をつかまれ、壁へと押し付けられている格好のまま、ユーリスが呟

く。しかし、その言葉に答える意志がないのか、真は笑みを浮かべたま

ま、彼女の金色の髪を鷲掴みにした。

「お前よりもずっと綺麗な金の髪を知ってる。それと比べたら、お前のは

クズだな……割ってもいい?」

 

―― 割 っ て も い い ? ――

 

 頭の中で繰り返される言の葉。

 恐怖に目の前が真っ白になる。

「マコト様! おやめください、どうか、どうか!」

 クラリスの懇願に耳を傾けずに、真は恐ろしいほどの微笑を浮かべて

いた。頭を、髪を掴まれたユーリスの大きな丸い瞳に涙がジワリと滲む。

「マコト様!!」

 張り裂けそうなクラリスの声。

 真はゆっくり――とてもゆっくりと、その言葉を告げた。

「やめて欲しいのなら、私たちの周囲を探るのをやめていただけません

か? クラリス、ユーリス……もっと、いますね。その全ての頭蓋を砕か

れなくなければ」

「…………」

 クラリスが息を呑む。

 その間にも頭を掴まれたユーリスの頭蓋がミシミシと嫌な音を立てて軋

んでいる。

「クラリス……」

 ユーリスの弱々しい声に、下を向きかけていたクラリスが顔をあげた。

 眼鏡の奥の瞳には迷いのない光が灯り、

「申し訳ございません。人間がニヴルヘイムに入ることは珍しいことでし

たので、警戒しておりました」

「……警戒、ですか。本当は他に目的があるのではないですか?」

「ありません……魔神王アスタロト様に、誓います」

 迷いのない言葉、強い言葉。

 その言葉に真は息を吐き、ユーリスから手を離した。ズルズルとその

場に蹲り、呼吸を整えようと必死で深呼吸を繰り返す彼女へと背を向け

て、彼は冷たい瞳で振り返った。

 

「私の美しい夜に何かあれば……――」

 

 その先の言葉は聞こえなかった。

 しかし、確かな殺意を感じ取り、二人は言葉を失う。

 窓の外に存在する、人間たちは今――こんな心境なのかもしれない。

 殺される、殺される、死にたくない。

 光の雨はなおも降りつづけ、魔獣の雄叫びが聞こえてきた。