東の空が紅蓮に染まる。真っ青なはずの海には血の色が溶け

込んで、数多もの亡骸が浮かび、揺られ、やがては沈んでいく。

 砕かれた戦艦の残骸は投げ出された人々を押し潰し、共に沈

んでいく。

 今、再び海に炎の塊が投げ込まれた。

 悲鳴と悲鳴が重なり、響きあう。

 絶望を嘆く声が――

「……ひどい、な……」

 バルコニーの柵に手をかけ、掠れた声で呟く結梨。その目は腫

れあがり、彼が何度も何度も繰り返し泣き叫んだということが見て

取れた。その傍らに佇む真は、一瞬だけ目線を下に向け、息を吐

き、再び結梨へと目を向けた。

「……本当に甘ちゃんだなお前は。そのお前の甘さが七瀬を殺し

たって、理解できないのか?」

「――どういう」

「タナトスがあれば、人間ごときに負けるはずがなかった。お前が

掲げた平和なんてものは幻想でしかないんだ。タナトスが失われ

たと知った人間は、勢いづけて侵攻して来てるだろ。

 七瀬じゃあ、もうムリだった。お前のせいで七瀬は変わる、お前

のせいで繰り返される、悲劇はね」

 タナトス――あれを砕いたときは、本当に平和が訪れると、説得

できると思っていた。こんなことになるなんて考えなかった。

 結梨は俯き、唇を噛む。

 今は遠くの大地にて魔術を遣い、躊躇うことなく自らの意思でヒト

を殺している、友人の姿を思い出す。真は、彼女を美しい夜と呼ぶ

――ニヴルヘイムに伝わる、伝説が一人。

 双紅の大魔導師の愛称で呼ぶ。

「……七瀬を殺したのはお前でもあるってことを忘れるな」

「オレが……七瀬を……」

 声が上擦る、堪えようと必死なのだろう、そこそこにガッシリとして

きた肩が震えて嗚咽が漏れる。何度溢れても、何度零れても、決し

て枯れることのない涙が頬を伝い、白い床の上へと落ちる。

 その姿に真は唇を噛み、口をついて出そうになった言葉を飲み下

した。その漆黒の双眸は、すべての光を拒否するかのような暗さで、

東の空を仰ぐ。

 巨大な火柱が立ち上る。

 人間の悲鳴が響き渡る。

 ――あの時代がかえってきたのだと、繰り返されるのだと、自ら選

んだ道を想う。

 

「深山、七瀬より、キルケのほうが……よっぽど、戦争に向いてる。

何が大切か、見えてるんだ」

「それでも…………」

 

 嗚咽交じりに、結梨は告げた。

 

 

 

「骨すらも残さねぇ……か」

 海岸で運良く流れ着いた人間の始末をしていたシュテルンが呟く。

紅蓮の炎は海を汚しているようで――まったく汚していない。精霊に

守られた大海は美しいまま、波音を立てている。

 その少し離れた場所で、また一人の人間が打ち上げられる。半身

が焦げているが辛うじて息がある。

「……おい、人間。運が悪かったと思えよ」

 ぜぇぜぇと耳障りな呼吸を括り返している人間。年のころは魔族の

年齢に換算すれば乳飲み子と変わらないであろう。それを見下ろし、

一気にトドメを刺す。

 ――苦痛を、感じないように。

「人間に同情を?」

「……ゾンネか」

 鋭い視線。

 二人の視線がぶつかり合い、火花を散らす。

「ゾンネ、どういうことだ。テメェ……ナナセと血の契約を交わしてやがっ

たな? キルケに忠誠を誓うんじゃなかったのか?」

「あなたも……あなたも、あの人間の小娘と契約を交わそうとしたはずだ

……過去と重なるか?」

 冷静な声。久しく見る、彼の本性にシュテルンは舌打ちした。

「……オレのは殆ど無効だ。アイツが返してねぇ……だからキルケに従わ

ねぇと――テメェは、従うつもりがねぇわけだろ」

「えぇ。私はナナセ様に従うと――」

 砂埃が舞う。

 濡れて重くなった砂の塊が弾丸のように、ゾンネの全身へと降り注ぐ。

 しかし、それらはゾンネに致命傷を負わせるどころか、薄皮一枚傷つけ

ずに散っていく。

「……女か、テメェ……女のために、ナナセを利用したな」

 怒りに拳を震わせるシュテルン。その様子を冷静な眼で眺めているゾン

ネの唇が僅かに開かれる。抜き身の大剣が炎の赤を映していた。

「私にとって、この世界で最も大切なのは彼女だ……人間も、魔族も、私

にとっては屑も同然だと……ご存知でしょう? 私とあなたは似ていると、

そう仰ったはずです……フラロウス卿」

「――あぁ、嫌になるほどソックリだよ、テメェとオレはな!!」

 一際巨大な火柱が上がる。

 海を渡ろうとした戦艦が爆発しながら沈んでいく。人の頭がゴミのように

水面に揺れ、その大半が沈んでいく。いくつの命が失われたか――いくつ

の想いが断ち切られたか。

「一つだけ、忘れんな」

 鋭い眼差しでゾンネを睨んでいるシュテルン。その拳に込められた怒り

は収まったのか、はたまた隠したのか、震えることはなかったが、その手

の中に握られていたはずの石が砕ける。

 赤い瞳が見開かれ、極度にたれた――可愛らしい顔が、怒りの形相へ

と変わる。

「オレもテメェも、大賢者の手の中の人形しかすぎねぇ。テメェも後継ぎが

できりゃあゴミなんだよ」

 吐き捨てられるかのような言葉に、動揺するわけでもなく、ゾンネはその

双眸に諦めにも似た光を宿していた。胸を抑え、大剣を砂浜へと投げ捨てる。

「知っていますよ。そんなもの……生まれたときから。あのお方はキルケ様

しか見えていない、気の遠くなるような昔から、永久にキルケ様しか見ない……」

 それで悲劇が生まれたというのに――紡がれた言の葉は悲鳴に掻き消さ

れ、その視線が波打ち際へと向けられる。

 佇むのは黒衣の少女。

 漆黒の髪を風になびかせ、その手には魂水晶の柩に収められていた武器

――かつて、彼女自身が使っていたもの――魔杖“夢浅葱”が携えられていた。

「フラロウス、サルガタナス、永くに渡る平和の時代はあなたたちを腐敗させたの?」

 夢浅葱が振り上げられる。

 刹那。

 天を裂く稲妻が、まだ起き上がることのできない人間を焼き尽くす。

 嫌な臭いが周囲に充満する――

「今は訓練ではない、戦争中」

 冷たい眼差し――感情のないような声。

 どこにもいない。

 何処にも見えない。

 声すらも、匂いすらも。

「……はい、キルケ様」

 頭をたれて、跪く。

 どんな表情をしているのなんて考えられなかった。

 ただただ――今はいない、人間の少女のことばかりが頭に過ぎる。

 血の似合わない人、いつかは明るい草原で笑ってくれれば想ってい

たのに――

「……フラロウス、エリゴールとアガレスを呼び、五芒星の陣の準備を。

 中央には狗零を配置しなさい」

「グレイを……?」

 シュテルンの聞き返しに、七瀬夕莉であった少女――古の大魔導師、

双紅の大魔導師と呼ばれた存在は、無表情なまま顔をあげる。

 十人並みと言われればそれまでの夕莉の顔が、別人のように――まる

で人形のようになっている。整い過ぎた、造形美。それは違和感を感じる

ものでしかなく、シュテルンは目をそらしたくなった。

 これは違う、違う。

 けれど――

「狗零は私に最も近い血を持つ……あの時代よりも簡単に遣えるようになる」

「……わかりました…………」

 息を呑み、歯を食い縛る。

「…………キルケ様」

 やっとの思いで吐き出したその名は、尊敬していた人の名。

 今でも同じと言えるだろうか――目の前に現れ、仕えることを喜びと想えるだろうか。

 シュテルンは目を伏せ、背を向ける。

「……キルケ様、一つだけお伺いいたします」

 去り行くシュテルンの耳にゾンネの声が聞こえる。

「ナナセ=ユーリは、本当に死んだのですか?」

「……愚問ね。私と黒い私は同一の存在、あれは、もう一人の私。

 アスタロト様をより近くでお守りするために生まれた――生も死も、存在しない」

「そう――ですか。ありがとうございます」

 キルケの言葉にシュテルンは歯を食い縛った。走り出す、砂浜に出来上がった

足跡が波に消され、まるで最初からそこを誰も歩いていなかったかのような状態

になる。

 しかし。

 確かに歩いた。

 確かに歩いたという記憶がある。

 その場に居合わせたゾンネも覚えているだろう。

 足跡のない砂浜をシュテルンが走ったと。

 確かにそこにあった。目には見えないだけで――

「……ナナセ、テメェは……」

 脳裏に過ぎる少女の姿。

 双黒の少女。

 可愛げのない――無茶ばかりをする。

「……テメェは、此処にいたんだろ……?

 最初から、いなかったわけじゃねえんだよ……」

 嗚咽が漏れそうになる。

 誰が死んでも泣かなかったのに――――

 

「キルケじゃなくて……ナナセ=ユーリだろ……? テメェは……」

 

 悲しい風が頬を撫でていく。

 空が泣きそうな色をしていた。

 精霊たちは帰還を喜んでいるというのに、悲しみの声が聞こえてくる。

 ただの人間を、惜しむ声が。

 人間を嫌う魔族の間から、聞こえてきた。

 

 

 

 

「戦争は……よくない……よ。

 今は夢物語かもしれないけど……絶対、絶対……平和に……」