待望の第一子の産声に喜んだのも束の間、母親は、我が子を腕

に抱いたまま、言葉を失っていた。漆黒の双眸をもつ赤子、まっす

ぐに母を見る、その瞳は物言わぬ赤子のものなどではなく、今にも

何かを語りだしそうであった。

 その不安はすぐに現実となる。

「あら、偶然ですね」

 隣に腰掛けた女性の腕に抱かれた赤子へと目を向けながら、母は

ぎこちなく微笑んだ。

「おっぱいの時間がかぶるっていうのも、珍しいですよね」

 女性の言葉に母は、難しい顔をしながら我が子へと視線を下ろした。

乳を吸うのに満足したか、その漆黒の双眸は隣に腰掛ける、物腰の

柔らかな女性に抱かれる男児へと注がれており、平和そうな顔に安堵

しているようにすら見えた。

「あら」

 そのことに気付いた女性は穏やかに、とても優しく微笑んだ。

「今日もうちの子を見てるのね、気になるのかな〜?」

 女性の手には目もくれず、ただまっすぐに男児を見詰める瞳。

 それは――

 まるで、本の中に登場する騎士か何かのようで。

 とても赤子のする行動には思えなかった。何を言ったわけでもない、ただ、

まるで大人のように食事の時間を決め、排泄の時間まで決まっている我が

子が不思議でならない――大声をあげて泣くことのない、まるで赤子の姿を

した大人を見ているようだった。

「そういえば、名前はなんていうんですか? うちの子はゆうり」

「ゆうり」

 二つの声が重なって、女性が驚いたように目を丸くした。

「同じ名前なんですか? ふふ、きっといいお友達になってくれますよ。二人

とも」

 よろしくね。と微笑む女性。

 刹那、まるで自分も構え。と言わんばかりに腕の中の男児が泣き出す。そ

の姿を見て、赤子は顔を顰めた。あたかも――泣かせた母親を咎めるように。

 母は、歯を食い縛った。

 同じ赤子なのに、こんなにも違う我が子を抱いて。

 胸の内に芽生えた感情は、我が子の成長とともに大きく育っていく――

 

 

「夕莉、何を見ているの……」

 退院して数ヶ月、すっかり首もすわり、はいはいで自由に動き始めた我が子

は、いつも同じ時間になると窓辺で外を見ていた。なにが見えているのか、漆

黒の双眸は遠くを見ており、時折り唇が震えた。

 赤子の仕草ではない――そう、思えて仕方がない。

 夜泣きのない我が子。

 必要なとき以外、親にすりよりもしない我が子。

 笑顔を浮かべるときもあれど、それは赤子特有の愛らしい笑みではなく――

もっと。もっと成長した少女の笑みに見えた。

 母は我が子へと近寄り、豊かな黒髪をたくわえた頭へと触れた。

「ねえ……あなたは、本当に私の子供なの……? 本当に……」

 ゆっくりと、振り返る。

 そこに浮かべられた表情は、ベビーベッドなんて似合わない。

 似合うのは漆黒の柩だけ。そう思わせるのに十分な、死期を知った、戦士の

顔をしていた。

 母は戦慄する。

 実家の父の若い頃の写真。戦争に行ったという、父が浮かべていた表情

――それによく似た、面差し。それは決して血のつながりなどではない。

 この赤子は戦場を知っている。そう思わせるのに十分だった。

「……――――」

「また……ねえ、それはなんなの? なにを喋ってるの?」

 日本のものでも、赤子特有の言葉にならない声でもない。明らかに我が子

は何かを喋っている。見知らぬ言語で喋っている。

 言葉を喋るには早すぎ、そして――

「――――」

「ウソ……ウソ、ウソ」

 ゆっくりと立ち上がる、その姿。

 支えもなしに、その一歩を踏み出す。

 生後五ヶ月。我が子は何かに急かされるように、成長している。

 

「おい、なんで夕莉ベランダに放置してる……おい、おい……どうしたん

だ? おかしいぞ、お前」

 

 おかしいのはうちの子。

 みんな噂し始めてる。

 おかしい。

 おかしい。おかしい。おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしいお

かしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいお

かしいおかしいおかしいおかしいおかしい。

 

 気付けば、母は感情のままに腕を振り上げていた。

 小さな体は簡単に壁に叩きつけられる。それでも、我が子は表情を変えず

に、ジッ……と見つめる。その瞳は見定められているようで、常に苛々させ

られた。

「蒼夜、ご飯にしよう」

 近くで寝ていた、第二子を抱き上げると、母はゆっくりと体を起こす我が子

を視界に入れないように出て行く。月明かりしか入り込まない暗い部屋の中

で、泣き声一つあげない幼児は口を開いた。

「こんにちは、話し相手になってくれるのね、うれしいよ」

 それは、とてもはっきりとした喋り。

 その対象は――闇の中に潜む、虫。

 父が帰宅するまで食事を与えられることはなく、持て余した時間を、幼児へ

と成長した夕莉は虫と会話することで消費していく。それが、さらに母を遠ざ

けていく。

 小さな体にはアザが増え、それと同時に一つの考えが過ぎっていた。

 幼児は溜息をついて、

「時期尚早……というものかもしれない。もう少し、様子を見よう」

 ゆっくりと、目を閉じた。

 朝が訪れて、母が様子を見に来てみれば――

「あ、おかーさん!! あのね、ゆーりね、おかーさんのおかおかいたの!」

 満面の笑みで、画用紙いっぱいに描いた母の顔を振り回す。まるで別人

のような仕草に母は顔を顰めた。だが、あの――何かを語るような、漆黒

の双眸はなかった、ただの子供に見えた。

 母の腕の中で笑い、走り回って遊ぶ。

 どこにでもいるような子供――

 しかし。

「子供のフリしようっていうの……? 気持ち悪い子……」

 植え付けられた不信感は拭われることなく。その幼い体を打ち付ける、

大人の腕はどんな凶器よりも恐ろしくて。産声をあげたとき以外に泣くこと

のなかった幼児は――夕莉は、初めて大声をあげた。

「泣き声まで。そうよね、普通の子供は泣くものね、あんたみたいな猿真似

とは違う!」

 泣き叫ぶ夕莉の頬をもう一度。その体を壁に叩きつける。

 火がついたように泣き叫ぶ、その声に気付いたか、向かいに住む女性が

窓から顔を出した。

「どうしました?」

「いえ、何も。夕莉が転んでしまって」

「子供ってすぐ転びますよね。結梨も、ケガしちゃったりで……そういえば、

夕莉ちゃんの背中にアザがあるって……階段は危ないですよね」

「そ、そうで……すね」

 背筋が冷えた。

 アザをつけたのが自分と知れたら――子供の演技をすることすら可能に

なった、夕莉がこのことを喋ったら。母の顔色がみるみるうちに血の気を失

っていく。

 その顔を見ていた夕莉が、涙を零しながら、

「おかーさん、だいじょうぶ……? ゆーり、わるいこ?」

 首を傾げていた。

「あんたのせいでしょ」

 向かいの女性に、結梨の母に見えないように、その腹を蹴る。悶絶し、そ

のままぐったりと動かなくなった夕莉を見て、慌てることなどせずに母は窓を

閉める。

「……わたしは悪くない、この子が悪い。全部、全部、全部」

 静かに戸が閉められる。

 闇の中で気を失っていた夕莉は、しくしくと泣きながら痛む傷口を小さな両

手で抑える。

「っく……おかーさん、どうしてゆーりをぶつの? ……ゆーり、わるいこ?」

 押入れから姿を現したそれは、悪くない、と告げてくれたけれど。夕莉は大

きな瞳に涙を溜めて、窓硝子に額を押し当てて泣いた。丸まった背中に父の

手が伸ばされるまで、ずっと泣き続けていた。

 

 父は言う。もっと早く手を打っていれば――

 

 雪が降っていた。

 その日は、珍しいくらいに雪が降って。

 外は一面銀世界だった。

 はしゃぐ子供たちの傍らで母が微笑む。そこに夕莉の姿はない。

 ただ――白く曇った窓硝子を叩いて、叫ぶ声はした。

 寒い、寒いという訴え。中に入れてと、ごめんなさい、と。

 母は薄く微笑む。

「今日は寒いから、ココアのもうね」

 明るく笑う子供たち。

 その間にも、夕莉は泣き叫んで。周囲の注目の的であった。

 電話がひっきりなしに鳴っている。それをとろうとはせず、テーブルに集まっ

た長男と次女にココアを入れてやる。その顔には穏やかな笑みが浮かび、と

ても平和な光景に見えた。

 けれど――

「おかぁ……さんっ! さむいよぉ……さむい……お、か……あさん」

 白い息を吐いて、積もり始めた雪に体温を奪われて。唇を紫色にした夕莉

は泣き叫ぶ。向かいに住んでいる結梨が帰郷中でよかったと思う。こんな、

情けない姿を見られなくて――

「おかあさんっ!!!」

 一際大きく響いた声。灰色の空から降る、真っ白な雪が視界に入った。

「おかあさんは……ゆーりが、きら……い?」

 座り込んで、ヒザを抱える。淋しそうにしている、夕莉を助けるかのように

窓が開く。

 顔が希望に満ち溢れて、姿を現した母に抱きつこうと立ち上がる――刹那。

 

「あんたみたいな気持ち悪い子、産まなければ良かった。早く死んでよ。目

障りなのよ、早く死んで」

 

 とても冷たい声で母は告げた。

「ゆーり、きらい……?」

「大嫌い。早く、死んで」

 小さな体を持ち上げて、近所の住民が見ている中で。

 夕莉は、落とされた。

「なんで……きらい、きらい……きらい」

 冷たい空気が全身を駆け抜けていく。

 遠くなっていく母の姿。

 悲しい、と思うよりも。苦しい、と思うよりも。

 やがてその感情は一つの憎悪を生む。

 鋭い、漆黒の眼差し。

 眠った誰かが目を開ける、何かが覚醒する。

「誰が死んでやるか、アンタのために」

 小さな体が地面に叩きつけられるよりも前に、風が生まれる。それは夕莉

の体に襲い掛かるはずであった衝撃のすべてを緩和し、その命を救った。

 住民たちが駆け寄り、ざわめきが生まれる。

 救急車のサイレンと、パトカーの音。

 大勢の人間に囲まれた夕莉は、表情一つ変えずに。何も言わずに、ただ

ただ漆黒の双眸を母へと向けていた。

 その瞳にどのような感情が込められていたかなど――誰も知る由はない

のだろう。

 

 

 闇の中、夕莉は手を引かれて歩いていた。

「誰?」

「朝陽。会ったことのない弟って覚えて」

「何の用?」

「なんか、変な人がお姉ちゃんを迎えにいけって。悲しい運命に、少しでも光

を……だってさ」

 朝陽と名乗った少年に手を引かれて歩いて。

 夕莉は不思議な光の中へと足を踏み入れた。

 そこにいるのは、少し老けた母。傍らには父がいて、

「……おか……」

「夕莉、夕莉……なの?」

 イスから立ち上がった母が駆け寄る。思わず逃げそうになるが、その手を

朝陽が引きとめた。顔に浮かべられている微笑は、安心していいよ。と訴え

ている。

「おかえりなさい……ずっと、ずっと探していたの……あの施設からいなくな

って、ずっと……二年間、心配してた……おかえりなさい。おかえり……」

 温かい腕に抱き締められて、本心からの言葉を聞いて。

 止まっていた心臓が動き出したような気分だった。

「おかあ……さん……」

「ごめんね……酷いことして。けど、もう……もう。大丈夫だから……自分勝

手かもしれないけれど、お母さんは……夕莉のお母さんになるから」

「…………お母さん…………」

 ほしかったぬくもり。

 あなたの言葉。

 夕莉は微笑んだ。とても、優しく。

 とても、意地悪で、とても、優しい、友人を想った。

「…………アリガトウ」

 幻でも、嬉しい。

 白い光の中を舞い散る桜吹雪。

 その中に飲まれるようにして――消えていく。

 朝陽が手を振って、母の腕の中でゆっくりと消えていく。

 

 

 七瀬夕莉が――消えていく。

 母の、腕の中で。

 安らかに、微笑んで。