「ねえ、深山! お前は本当に戦争を放棄するのかい?」

 背を向けている真は声を大きくした。後頭部には黒い、柔らかそうな髪が揺

れている。不思議と、風もないのにかすかに揺れていた。

 どんな顔をしているのかは知らないが、とても感情の読み取りにくい声をして

いた。

「え、なんだよ。いきなり……」

「深山! 早く答えて」

 真に急かされ、結梨は蹲って呻き声をあげている夕莉を見ながら、

「止める。和平に向けて、ニヴルヘイムは戦争をしないことをちか――」

「アシュレイド!」

 真の声が一際高く響く。

 その声にアシュレイドは身を翻し、結梨の口をその大きな手で塞ぐ。信じられ

ないようなものを見ているかのような目をしている現魔王陛下――しかし、その

場に居合わせた誰もが、彼を助けるどころか夕莉を助けようとすらしない。

「……がっかりだよ。深山」

 肩を落として、真が呟く。振り返らないままの彼がどのような顔をしているのか

はわからない。けれど、その声は確かに笑ってはいなかった――むしろ、深い、

深い、苛立ちを含んでいた。

「英雄が末裔らに告ぐ!」

 突如、声を張り上げる真。腹に力をいれた力強い声に三人が背筋を伸ばす。

緊張が走り、空気が張り詰める。

 真はどこから取り出したのか、長い杖を携えており、その先端で床を叩いた。

渇いた音が響き渡る。

「古の魔女の――復活祭を行ないます」

「アガレスがおりませんがよろしいでしょうか」

 メーアが一歩前へ出る。その言葉に真は薄笑みを浮かべ、もう一度杖で床を

叩く。素早く振り返り、英雄の街影たちへと目をやる。

「必要ありません。この儀式に必要なのは――」

 漆黒の双眸。それは、暗い闇をそのまま硝子球に閉じ込めたかのような美し

さ――そこに浮かぶのは薄笑み。どこまでも残虐な、魔族の歴史の中でも重要

な位置にいる存在と同じ色、同じ輝き。

 メーアは息を呑んだ。代々、黒を継ぐ女児にだけ伝えられている、始祖エリゴ

ールの想い人――その人によく似た眼差しだった。エリゴールが手に入れるこ

とのできなかった唯一の存在。

 人間の少年であるはずの真の唇から魔族の言葉が漏れる。今では使われる

ことの少ない、古の言の葉。

 それは確かに告げた。

「供物の娘、その器を満たすは美しき夜――」

 床を叩く杖の渇いた音は、合図。周囲の空気の流れが変わる、訪れるは古の

時代より残留し続けている想い――双紅の大魔導師を慕う精霊たちの遺志。

 それらが一斉に、七瀬夕莉と名を享けた人間の少女へと入り込む。

「ぐぁ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ!!!!!」

 自分ではない何かが体内を這いずる。記憶をかき回されるかのような感覚に

頭を抱える。常人ならばとうの昔に気を失い、躯を明け渡すであろう。それでも

夕莉は声をあげながら、暴れまわりながら必死で己を保とうと奮闘していた。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ!!!!」

 脳裏に過ぎる想いは何か――

「七瀬」

 聞こえた声に双眸を見開く。

 夕莉の瞳は乾いて、涙など溢れる気がしなかった。激痛で涙すらも失うか。

「あの、白い家はどうだった? 先生はいい親になってくれた? 今度遊びに行

きたいな」

 明るい、その声。けれどそれとは裏腹に夕莉の表情が暗く沈んでいく。痛みに

抵抗するのを忘れそうになるほど、彼女の顔は生気を失いかけていた。

 それに気付いていないはずがないというのに、真は言葉を続ける。結梨を抑え

ているアシュレイドの腕が震え始めていた――何かに耐えるかのように。

「お前の本当の母さんはなにしてるの? 一度も授業参観にも、遠足にも来てな

かったよね。そういえば、幼稚園くらいのときに救急車きたよね、あれはなにがあった?

 寒い、寒い雪の日だったよね」

「やぁ、やめぇ……やめろ……い、いう……あぁ、あ、あ!!」

 真に掴みかかろうと腕を伸ばす。しかし、それは虚しく宙を泳いで床を叩く。力の

ない音が聞こえたかと思うと、真は薄笑みを浮かべたまま夕莉へと距離を詰める。

 黒いローブの胸倉を掴んで、軽く引き上げ――

「雪の中で倒れてたお前に、母親はなんて言った?」

 笑う。どこまでも楽しそうに、どこまでも嬉しそうに。

「あ、ぁ、ああ、あ、あ、あぁ!! お、か、ぉあ、おかあ……!!!」

 双眸を限界まで見開いて。それでも夕莉は涙を零すことはなく、ただ耐えるように

ゼエゼエと音をたてて呼吸を繰り返していた。その様子を見ていたシュテルンが拳

を握り締める。震え、その白い指の隙間を赤い血が伝う。

「んん!! んんん!!!!」

 アシュレイドに抑えられたままの状態で結梨が叫ぶ。だが、それは言葉にすらな

らず、獣の声にも似ていた。だが、何かを理解したのか口元を抑えていた大きな手

から、僅かに力が抜かれるのが分かった。

「駿河!!! 友達に何してんだよ! 七瀬、おい! 七瀬!!」

 ひゅ、と風を切る音がする。刹那、声を張り上げた結梨の頬を、真の杖が強打し

ていた。口の中を切ったか口の端から血を滴らせ、呆然としている。その顔を睨み

ながら、彼は口を開いた。

「だまっていてくれないか? ボクはお前を守る気はさらさらないんだ。ボクが守るの

はあくまで、その奥の尊い魂だけ――分かる? 理解しろ、低脳な王」

 この世のすべてよりも冷たい声色。とても同い年の――十五歳の少年の声とは思

えなかった。結梨は血の気が失せたか、双眸を見開いたまま言葉を失っている。

 その顔に満足したのか真は、再びその体を夕莉へと向けた。

「ボクは知っているよ。お前の母さんの言葉、近くで聞いたんだ」

「だ、やだ!!! ぁだ、やぁ……だぁあ!!」

 掠れた声でなおも叫ぶ。しかし真は止めるどころか、彼女が拒否するその言葉の

続きをゆっくりと、噛み締めるように吐き出した。周囲を漂う空気が一気に冷たくな

るのを、四英雄の末裔は、魔族の時間では短い時でも、ともに時間を共有した彼ら

は、肌で感じた

 

「あんたみたいな気持ち悪い子、産まなければ良かった。早く死んでよ。目障りなの

よ、早く死んで」

 

 夕莉は何も言わなかった。双眸を見開いたまま、動きを止めて。

 カタカタと小刻みに震える唇からは血の気が失せ始め。

 今にも死んでしまいそうにすら見えた。

 それでも溢れることのない涙。恐怖に引きつった、夕莉の顔を眺めていた真が、ゆっ

くりと彼女へと近づく。足音が、不自然なまでに静かな神殿内に響く。

「お前は生きてても、意味がないんだよ」

 頬へと手を伸ばす。

 その顔には笑みすら浮かべて。

「早く――」

 離れていく手。

「死んでくれない?」

 渇いた音が響いて。頬を赤く腫らした夕莉がその場に倒れこむ。まるで電池が切れ

た人形のように、ぐったりと動かなくなり、端から見れば本当に死んでいるようにすら

見えた。

「ナナセ……ナナ……っ!!」

 シュテルンが飛び出す。倒れたまま動くことのない夕莉の手の甲へと歯を立て、ま

だ流れている――生きている鮮血を吸い出す。赤い紅を差したかのような唇を手の

甲へと押し付け、叫ぶようにその言葉を口にする。

「オレは……!! 白の一族、シュテルン=ヴァイス=フラロウスはっ、テメェだけに…

…テメェだけに忠誠を誓う! 血の誓いに、応えろ、応えろ!!」

「フラロウス、なんのつもりですか?」

 背後から降りかかる冷たい声にシュテルンは歯を食い縛り、何も答えなかった。た

だ、双眸を見開いたままの夕莉を気遣うかのように、瞼を下ろしてやる。

「罰ならいくらでもうけてやらぁ……死罪だってな」

「シュテルン……!」

 メーアが声をあげる。しかし真はクスリと笑みを漏らし、シュテルンの顎へと杖の先

端をあてがった。

「愚かなことを言いますね。あなたの血を絶やすわけにはいきません。生きてもらい

ますよ、まだまだ」

 一人の魔族としての認識ではない。あくまで“フラロウス”の血を継ぐ駒としてしか見

ていないのだろう。シュテルンは何も言わずに、名凝り惜しそうに夕莉を見ながら下がった。

 その唇には夕莉の血が付着し、凝固し始めていた。

「アシュレイド、お別れの時間をさしあげましょうか?」

「……いえ……」

 首を振り、俯くアシュレイド。彼を見上げている結梨は、彼がどのような表情をしてい

るのか、まったく分からなかった。ただ、その大きな手は震えて、何かの衝動を抑えて

いるようにも思えた。

「そうですか……では、仕上げです」

 真が口の中で何かを紡ぐ。

 それは結梨にも、たとえメーアですらも理解できない言の葉。

 真がソレであるが故に口にすることのできる、古の言の葉。

 身動き一つ――呼吸すらしていないように見える夕莉の体を、六芒星の魔方陣が囲む。

 

 

 ねえ、お母さん。

 ねえ、お父さん。

 ねえ、深山。

 ねえ、アシュレイド、メーア、ゾンネ、シュテルン、ヒンメル……

 ねえ、ヒューゲル……

 僕は……なんで産まれたの?

 

 

 闇の中で誰かとすれ違った。

 それは僕の背中を押して、深い、深いの闇の底へと押しやる。

 もう、恐くない。

 もう、悲しくない。

 

 もう――何も感じない。

 

 

 

 それはゆっくりと体を起こした。

 顔は夕莉だというのに、表情はまるで彼女とは別人の――妙に人形じみていた。

 真は両腕を広げて歓迎を表すかのように、満面の笑みを浮かべた。

「お久しぶりです、美しい夜」

 それはゆっくりと。確認するように口を開いた。

 

「ネビロス……様、アスタロト様……お久しぶりです……」

 

 

 もう――僕はいないんだ。

 

第三章