ニヴルヘイムの馬は頭が二つあったりするやつもいる――
という説明をしながら、あまり手入れの行き届いていない道を
走る。馬車を使用してはいるが、やはりデコボコしているせい
か尻が痛いと結梨が言っている。その言葉に夕莉はどうしたも
のかと周囲を見回すが、誰一人として顔をあげてはいない。
戦死者に黙祷を捧げたときのようになっている、馬車の中の面々。
居合わせていないのはヒンメルとグレイの二人。
ヒンメルは人間の掃討に入り、グレイは未だに眠ったまま。怪
我の状態は悪くは無いが、よくもない。衰弱が激しいので大事を
とってはいるが――前例の無いヴァンパイア。何が起きるかなど
わかったものではない。
戦況は悪くはないが、戦死者が出てないわけではない。
魔剣タナトスは失われ――
そういった状況からか、馬車の中は恐ろしいほどに重苦しい雰囲気である。
「……なぁ、お前ら……やたらと静かだな」
周囲を窺うように呟きにシュテルンが顔をあげる。普段の彼らし
くもない、酷く動揺した表情に夕莉は思わず瞠目する。耳の少し
上で結ばれた白い髪が揺れ、赤い瞳が細められる。笑ってなど
いない、むしろ浮かべられているのは――
その答えを夕莉が掴むよりも前に、彼は口を開いた。
「ほら、キルケ様の墓所に行くんだ。緊張して当然だろ」
「最大限の敬意を払わねば失礼に値します――」
続いてゾンネが口を開く。赤い髪に触れ、紫色の瞳でまっすぐに
夕莉を見据え、
「緑の一族が魔族を裏切り、キルケ様の墓所を放置するという愚
行を――」
「ゾンネ! アイツのことは言うな」
シュテルンの怒声が馬車の中に響く。すいません、と小さく告げ
たゾンネは窓の外へと視線をやり、何かを夢想するかのように紫
苑の双眸を閉じた。
再び、馬車内に沈黙が訪れる。
隣に座っている真は珍しく無口で、メガネの奥の瞳は何を思って
いるのか遠くを見ているようにも見えた。夕莉の視線に気がついた
のか軽く笑う。
「ボクに見惚れた?」
「それはないな」
真の言葉に即答し、夕莉はメーアへと目を向ける。複雑を表情を
浮かべている。
「メーア」
「……あ、はい。なんでしょう?」
不思議な間をあけて、軽く首をかしげるメーア。灰色の髪が流れ、
黒い瞳に無垢な光が宿った。
「いや、用はねぇけど……静かだからな」
夕莉の言葉にメーアは苦笑した。ヒザの上に乗せていた両手を口
もとへと運び、上品に微笑む。しかしそれは本当の表情を隠し、本心
すらも隠しているように感じられた。
「キルケ――双紅の大魔導師はエリゴールの上司でしたから。子孫
として緊張もいたしますわ。愚兄の行為の赦しも請わないといけませんし」
キルケの部下がエリゴールであった。二人は仲睦まじい友人のよう
でもあった、という記述は覚えている。夕莉は静かな魔族たちを見回
すと、そのまま結梨へと目をやった。
未だに尻が痛むのか、とうとう中腰になっている。
「深山、大丈夫か?」
「今は……ちょっとだけ……うぅ、尻が割れる」
最初から割れてるだろ――なんてありがちなツッコミを言おうか迷っ
ていると、突然馬車が止まった。馬のいななきに魔族メンバーが顔をあ
げる。その顔には、十五年しか生きていない夕莉には到底理解でき
ないような複雑な表情が浮かべられていた。
それはアシュレイドも同じであり、長い腕を夕莉へと伸ばし、
「……手を、繋いでもいいでしょうか?」
どこか、悲しそうに告げた。なぜ、こうも悲しい声を、瞳をするのか理解
できなかった。だが、夕莉はその声に応えるように、自らの手を差し出した。
包まれる感覚に安堵を覚える。
「七瀬、悪い……俺も。上手く歩けねえっ」
尻をおさえたままフラフラしている結梨と、空いたほうの手を繋ぐ。不思議
な光景だというのに笑い声が聞こえないのは、そこにいる全員が神妙な顔
つきをしているからであろう。
書物でしか見たことのない、双紅の大魔導師キルケ――夕莉の転生前の
姿だといわれる魔族は、それほどまでの存在なのだろうか。
崇められ――そして畏れられる。
「……アンタも、淋しいヤツだよな」
キルケの墓所を仰いだ夕莉は小さな声で、自分にしか聞こえないような声
で呟いた。
目前には、真っ黒に塗り潰された神殿。その周囲には雑草が茂り、野性の
魔獣たちが跋扈していた。とても偉大な大魔導師の墓所には思えない――
せいぜい、ジャングルの奥地にある秘境だ。
先頭に立ったゾンネが伸び放題の蔓を切り払っていく。魔獣たちの低い唸
り声に結梨がビクビクしているが、襲ってくる気配はない。それもそうだろう。
ニヴルヘイムを代表する魔族たちが並んで歩いているのだ。勘の鋭い獣
でなくとも回避したくなる。闘争心を丸出しにすれば、一度まばたきをしてい
る間に殺されているだろう。
――自分が、死んだということも理解できないほどの早さで。
獣たちに遠巻きに見られながら、七人が歩く。
誰一人として口を開くことなく――それはまるで、葬儀の列のようにも見えた。
誰を弔うものか。
誰が弔われるのか。
黒で統一された空間。
台座の上にあるは一つの水晶――その大きさは、夕莉の背丈とそう変わら
なかった。どのような力が働いているのか水晶は空中に浮かび、淡い輝きを
放っていた。
「キルケ様!」
ゾンネが声をあげる。
今にも駆け寄りそうなゾンネをメーアが静止させ、その横をシュテルンが通り
過ぎていく。
「……双紅の大魔導師キルケ様。今世の白の一族が当主、シュテルン=ヴァイ
ス=フラロウスでございます。久方ぶりの再会を嬉しく思うと同時に、安らかなる
眠りを害して申し訳ありません」
その場に跪いて、深く頭をたれる。その姿は魔王である結梨の前でも見られ
ることのなかった、王に近しい者に対する最高の礼儀だった。
キルケがとれほどまでに英雄視されているか、どれほどまでの影響をもたら
しているのか。
ようやく、理解できた気がした。
呆然としている夕莉の目の前で、メーアとゾンネも同じように跪く。
「双紅の大魔導師キルケ様。私は今世の赤の一族が当主、ゾンネ=ロート=サ
ルガナタスと申します! あなた様に出会えたことを幸いとします!」
「双紅の大魔導師キルケ様。わたくしは今世の黒の一族が当主、メーア=シュ
ヴァルツ=エリゴールと申します、エリゴールの子孫として、あなた様の部下の
子孫として誇りをもって参上いたしました」
少し遅れて、アシュレイドが跪く。
「双紅の大魔導師、キルケ様……私は青の一族が番人、アシュレイド=アガレ
スでございます」
その続きを言う前に、アシュレイドは立ち上がる。礼儀に厳しい彼らしくもない――
夕莉が不思議そうにしていると、何の前触れもなく叫び声が聞こえた。
「あ! 水晶の中に誰かいるみたいだよ!」
真の叫び声に好奇心を刺激されたのか、結梨が水晶の下へと走り出す。そ
れを追いかける夕莉。すれ違うシュテルンが、メーアが、ゾンネが、アシュレイ
ドが――どのような目をしていたか。
結梨ばかり見ていた夕莉には分かるはずもなかった。
「うわぁ、すごいきれいな人だな」
結梨の言葉に真が頷く。馬車の中での複雑な表情はどうしたのか、今の彼は
とても明るい笑みを浮かべていた――そう、不自然にも見えるほどの明るい笑
みを。
「七瀬もそう思うだろ? なぁ――七瀬」
振り返る、結梨と真。二人の声が重なる、頭の中で響き合う。
「あ――?」
頭上に見える、淡い色をした水晶。その中で眠っているかのようにも見える人
――真っ赤な髪の、真っ白な肌の、見目麗しい――性別の分からない人。
知らない人。知っていてはいけない人。
けれど、不思議なほどに懐かしい人。
「……うあ、あああぁぁぁぁ!!!!!?」
頭を抱えて叫び声をあげる。
喉が悲鳴をあげる。
口の中に鉄の味が広がる。
「あああああああああああああああああ!!!!!!」
叫び声をあげ続ける夕莉の漆黒の双眸が限界まで見開かれる。
異常事態だというのに動こうとしない魔族たち。
ただ、驚いている結梨と――真。
絶叫は響き渡り、その水晶から何かを解放していく。そのたびに降り注ぐ光は
夕莉の皮膚に溶け、浸透していく。まるで――雨の雫が消えていくように。
「あぁああああああぁぁああぁぁぁあああ!!!」
止まることを知らないのか。
濁った声になっても叫びつづける夕莉。
見開かれた漆黒の瞳が水晶の中の人物へと向けられる。
降り注ぐ光が途切れる。
――お前が、キルケ? 夢の中の、女……? 炎の、ような――
水晶に走った亀裂。
砕ける、四散する破片の総てが夕莉へと降り注ぐ。
それらは皮膚を切り裂くのではなく、破片の一つ一つが夕莉の中へと入っていく。
光の雨が、粒が、すべて消えると同時に絶叫が止む。
「な、な……七瀬……?」
手を、伸ばそうとした結梨の目の前で、ゆっくりと。
それはまるで、その瞬間が永遠に続くのではないかと思うほどにゆっくりと。
夕莉がヒザをついた。
肩で息をして、頭を抱えたまま。
「ナナセ……様っ……」
アシュレイドの、悲痛な声が――
「ナナセ……」
シュテルンの、無感情な声が――
「七瀬、おい……」
駆け寄ろうとする結梨を静止させて。
真は歩き出す。その顔には歪んだ笑みが浮かべられていた。
「あっ、ぐ……うぅ……うぐ、っあぁぁ!」
苦しみ、悶えるその姿。
漆黒の髪を振り乱す、その姿を見下して――
真は口を開いた。