真っ白な光が目に染みた。
どれだけ眠っていたのだろうと、はっきりとしない頭に手を置く。
鈍い痛みが頭を通り抜けて、吐き気にも似たものが込み上げる。
「……すごく、ヤな夢見た気がする……」
靄のかかった視界に微かに映りこむ、その姿に夕莉は瞠目する。
「ア……シュレイド」
思わず、その名を口の中で告げる。その声にアシュレイドが目を覚ま
すことはなかったが、不機嫌そうに寄った、眉間のシワが緩められる。
どんな夢を見ているのか、その口元はどこか微笑んでいるようにも見えた。
「あぁ……また、か」
繋がれた手を見て、俯く。
ここに来てすぐの頃にも、こんなことがあったと覚えている。あの時は
ニヴルヘイムにおける求婚をしてしまい、酷く混乱したものだ。
「懐かしいな。あの頃とはまったく違う……僕も、お前らもな」
呟きながら、灰色の髪を指で梳いていく。魔族は美形揃いで、揃いも揃っ
て髪質もいい。指の間を絡むことなく通り過ぎていく、細い髪――不思議と、
穏やかになっていく心。
「……あぁ、そうか……これが、そうなのか……?」
独り言を呟きながら夕莉は、俯く。ヒザに顔を埋めて口の中で何かを告げ
る。それが何であるか、本人にしか分からない言の葉は、無音の空間に溶
けて――聞こえるのはアシュレイドの小さな寝息だけ。
息を吐いて、何かを吹っ切るかのように天井を仰ぐ。
「……二度目の、決意だ。僕は決めた……あぁ、決めたよ」
「何、を……ですか?」
アシュレイドの声。夕莉の表情が変わる――穏やかなものではなく、いつ
もと同じ、どこか苛立っているかのような張り詰めた顔に。
「起こしたか?」
「いえ……大丈夫です。いつの間に寝てしまったのか……」
まだ寝ぼけているのか、どこか表情が幼い。
その表情のまま、アシュレイドは夕莉の頬へと手を伸ばす。寝起きのせい
か体温が高い、触れた手の暖かさに心臓が跳ねる。
「あぁ――良かった。夢では、ないのですね……あなたは、ここにいるのですね」
愛の言葉を囁かれたわけでもないのに、息を呑む。どのような言葉を返す
べきかと思考をめぐらせる。それでもロクな言葉が一つも浮かんでこない。
寝起きのせいか、いまいちめぐりの悪い頭に苛立ちながらも夕莉は、アシュ
レイドの青い瞳が不安に揺れているのに気がついた。
「アシュレイド――」
「今は……今だけは、何も言わないでください……」
熱い、腕が背中に回る。抱き締められ、耳元で囁かれる言葉があまりにも哀
しそうで、夕莉はそれ以上何も言わなかった――否、言えなかった。
「ごめんなさい……ナナセ様……愛しています……愛して、います……」
「アシュレイド……?」
不安に満ちた声が、どんな意味を持っているかなど――今の夕莉には何一
つとして分からなくて、ただただ熱い腕の抱擁を受け止めることしかできなかった。
「おう、邪魔すんぜぇー!」
突然、扉が壊れそうな勢いで開け放たれる。そこに姿を現したのは白い箱を
持ったシュテルン。予想外の登場人物に夕莉の双眸が見開かれる。
それはアシュレイドも同じだったのか、硬直したまま動く気配がない。
「イチャイチャしてるとこワリィけど、ナナセ! 服脱げ」
「はぁ?」
「いいから脱げっての! どけよ、アッシュ!」
アシュレイドと比べると小柄――それでも、日本人の平均身長はある、シュテ
ルンが信じられないような力でアシュレイドを引き剥がして、絨毯の上へと転が
す。硬直している、というよりも驚愕のあまり気を失っているに近かったのかア
シュレイドは、抵抗の一つもせずに絨毯に背をつけて固まっていた。
「おい、こら! 何で脱がないと――おぉい!!!」
ぺろん、そんな効果音がつきそうなほどアッサリと黒いローブをめくられる。
「やっぱりな……」
小さな呟きに、夕莉はシュテルンの視線の先を見た。
「え……?」
「いつからだ? いつから、こうなった?」
シュテルンの目が恐い。普段は子供のような顔をしているというのに、今日に
限っては妙な恐さを帯びている。
しかし、それも当然なのだろう。夕莉は服の下に隠れていた、自分の皮膚の
異常な事態に息を呑んだ。
その様子にシュテルンは胸の前で腕を組む。
「前からってわけじゃねぇのか……じゃあ……治療、すっから」
なにやら、歯切れの悪い言葉を告げながら白い箱を開ける。中に入っている
ものを確認することはできなかったが、地球にあった救急箱と似たようなもので
あろう。
ひんやりとした綿が、グロテスクなまでに黒ずんだ――まるで、内出血を起こ
しているかのような皮膚を撫でていく。その後を指が這い、何か文字を描いている。
それはキルケの遺した書物では見かけない、古の魔術ではないのだろう。使
われている文字が最近のものだ。夕莉は冷静にその文字を観察し、考察してい
たが――不可思議なことに気がつき、表情を変える。
「シュテルン、これって魔族の魔術じゃないだろ?」
「どうだろうな。自分で考えろ」
これ以上、何も言わない。といった返答をするシュテルンに夕莉は微かな殺意
を感じたが、自分の腹の上に書かれる文字が、魔族のものではなく、彼が最も忌
み嫌う存在の――
「……どうせ、僕に話す気はねぇんだろ?」
「あぁ。話さねーよ」
はっきりと答えるシュテルン。
夕莉は苦笑を浮かべながらローブのすそを直すと、ゆっくりと立ち上がった。
「どうでもいいけどな」
「――ナナセは、アッサリしてるよな。ま、嫌いじゃねーぞ、そーいうところは」
「うんうん。ボクも七瀬のそういうところ大好き。だから仲間に入れて?」
どこから入ったのか。神出鬼没な真に絶句していた夕莉とは裏腹に、シュテルン
は数歩、後退して気絶したままのアシュレイドを蹴り起こしていた。表情が強張って
いるのは気のせいだろうか。
「あ、そうだ。さっき部屋の前でゾンネさんに聞いたんだけど。
キルケの墓所がどうとか? 面白そうだよね、みんなで行かない?」
嬉々とした表情で告げる真。
遊び場ではないのに――呆れそうになる中、夕莉はまっすぐに真を見ていた。
「そういえば……なんで、駿河はここに来たんだ?」
「なんで……って、うーん。深山と二人で落とし穴に落ちたらここにいたんだよ」
「ウソだろ」
「うん、それはウソだけど。巻き込まれたっていうのは本当だよ」
ニッコリと笑う真。こうなると何も聞き出せない気がする。
夕莉は頭を掻くとそのまま、
「まぁ。いいや……キルケの墓所に行くって、ゾンネたちに伝えてきてくんね?」
「喜んで。七瀬のためならボクはパシリになるよ」
人聞きの悪いことを言いながら、真が部屋から出て行く。途端に満ちる静寂に不
思議なものを感じる。今日は特にそれが多いと、夕莉は首をかしげた。
「ほんとに……」
「ん?」
「本当に、行くのか?」
背を向けているシュテルンの言葉。夕莉は迷うことなく頷いた。
「あぁ。色々と確かめたい……つか、言葉にすんのだりぃから、内緒な」
「…………ワリィな…………不甲斐ねぇ……」
「変なシュテルンだな」
笑って、部屋を出て行く。
その背中が消えそうに見えたなどと――誰が、思ったか。