「ようこそニヴルヘイムへ」

 めがねをしたメイドが満面の笑みを浮かべている。結梨は

戸惑いながら、それでも冷静になろうと頭を振った。

「私、ナナセ様専属メイドのクラリス=ブリュンヒルデと申します」

 ニコニコとした笑みを浮かべているメイド――クラリスは、小脇に

抱えた銀色のトレイを背中へとまわした。緑色の髪が軽く揺れる。

「え、えーと……そのクラリスさんが、何の用……?」

 ちょっと逃げ腰なのは当然だろう。結梨は焦りながら、それでも冷

静に――あくまで冷静に、迅速にことを運ぼうと奮闘していた。

 朝起きたばかりで、着替えの途中。

 上半身は問題ないが、やはり年上の女性の前でパンツを晒すのは

勇気がいる――否、そのような勇気などいらない。結梨はズボンを思い

切り引き上げると、急いでファスナーをあげ、ベルトを締めた。

 そんな彼の状態など気にならないのか、クラリスはニコニコと明るい笑

みを浮かべたまま、

「はい。ナナセ様のご友人であられる未来の魔王陛下にニヴルヘイムの

ことを説明するように……と、シュテルン様からおおせつかっています」

「そのー、シュテルンって人……」

「私たちメイドの長でもあります」

 意外な言葉を聞いた気がしたが――結梨はあえて何も言わずに、窓の

外へと目をやった。赤い鳥が飛んでいる。幸せは運んできてくれそうにも

ない。

「それでは、ユーリ様。まずはナナセ様とユーリ様のお世話をさせていた

だきます、メイドの紹介から致しましょう」

 どこから取り出したのか、クラリスの手には人間の顔一つ分くらいの大

きさをしたアルバム――らしきものが乗っていた。桃色の表紙をゆっくり

とめくると、数人のメイドたちの写真が並んでいる。

 地球にいた頃に、こういうお店がある――という報道をテレビで見たが、

ワクワクもしなければドキドキもしない。むしろ恐怖にも似た感情が背筋を

這っていた。

「まずは私、クラリス=ブリュンヒルデです、ナナセ様の専属のメイドであり、

アシュレイド様の同期でもあります」

 同い年なのか――と質問しようとして、結梨は口を閉ざした。めがねの

奥の紫色の瞳が、怪しく光ったのは気のせいではないだろう。年は追求

するな、ということなのだと。

 結梨は若干十五歳にして悟った。

「お次は――イリス=シュヴェルトラウテ。彼女がユーリ様専属メイドに

なりますので、後々ご挨拶に来ると思います、あと……えーと、この子。

カリス=グリムゲルデは料理全般を請け負ってるので、あまり顔をあわ

せることはないと思いますけれど、いい子ですのでよろしくお願いします」

 ぺこり、と頭を下げるクラリス。彼女の指差した写真には、他のメイド

たちよりも強い目をした女性が映っていた。どちらも信じられないほど

の美女である、ということはヒシヒシと伝わり、結梨はそこはかとなく地

球が恋しくなってきた。

 ――十人並みだと思っていた自分の容姿が、とんでもないブサイク

に思えてしまう。

 このような世界で二年間も過ごしていた夕莉は凄いと思う。

「さて、メイドの紹介も終わりましたし。次は……少しだけ内緒で街に出

ましょう」

 パタン、とアルバムを閉じて背中へとまわす。すると、何故かアルバ

ムは銀色のトレイと入れ替わって姿を消してしまった。どんなイリュー

ジョンを使ったのか追求したかったが、それを口にしたら消されてし

まう――そんな気がしたので、結梨は何も言わずにクラリスの後ろに

ついていった。

 赤い絨毯の敷かれた廊下を、大量の本を抱えた少女――に近い年

頃の娘が走っていた。

「あ、エリス!」

「あら、クラリス」

 立ち止まり、結梨の姿を確認すると軽く頭を下げる。

 エリスと呼ばれた少女は、やはり地球では見たことのないほどの美

少女であり、結梨はモジモジと視線を彷徨わせていた。そのことに気

がついていないのか、クラリスはエリスを指差し、

「彼女はエリス=ヴァルトラウテ、研究者をしています。何か聞きたいこ

とがあれば彼女に聞いたほうが早いですよ」

「そんなことないですって。私なんてまだまだ駆け出しですし……知識

量でしたら、ナナセ様には劣りますわ」

 エリスはツインテールを揺らしながら肩をすくめた。意外なところで夕

莉の名を聞いた結梨は、身を乗り出して、

「七瀬って、そんなに頭いいのか?」

「えぇ。とても覚えの早い方ですよ……そうですね、わたしの持っている

本の殆どを暗記してるのではないでしょうか? ぜひ、研究のチームに

入っていただきたいものです」

「へぇー……」

 学校では、そこまで頭がいい、という印象はもたなかったが、人間は

変わる――というものだろうか。結梨は首をかしげながら、背中を向け

たエリスに手を振った。

「それでは、ごきげんよう」

「エリス、気をつけてねー」

 クラリスも同じように手を振っている。その背中が見えなくなる頃、彼

女は窓の外へと目をやり、息を吐いた。

「ナナセ様はムリをなさる方ですので、私としても心配なのですが……

守りたいものがある、といつもいつも――」

「守りたいもの?」

 結梨の問いにクラリスは片目だけ閉じ、唇を尖らせた。

「分からなくともないです。悪くない、悪くない……ふふ」

 何かを含んだ笑みを漏らしながら、クラリスは廊下を歩きだす。藍色

のメイド服と、エプロンドレス部分の白が揺れる。緑色の髪を括ってい

る、純白のリボンがなびいて――まるで猫の尾のようであった。

 結梨はそれを目で追いながら、不思議な感覚にめまいを覚えた。

「……なな……違う、誰だ…………赤い、赤い……」

 脳裏に過ぎる、赤い――それは夕陽だったか。それは流れ落ちる血

涙だったか。

 その映像が脳裏を過ぎっただけで、涙が零れ落ちそうになる。しかし、

結梨はそれを零す前にワイシャツの袖でぬぐう。その涙はクラリスに気

付かれていなかったのだろう、振り返って微笑んでいる彼女は、あくまで

穏やかに。

 魔族――だなんて言葉が不似合いなほどの優しい笑みを浮かべていた。

 薄化粧を施した唇が、言の葉を紡ぐ。

「ユーリ様はこの国の孤児を知っていますか?」

「孤児……って、いるのか?」

「えぇ。たくさん……そうですね、この城に収容すれば一部屋を二十人と

しても、十一の部屋が埋まってしまうほどには」

「……そんなに?」

 えぇ――とクラリスが頷く。それだけの人数となれば、学校であれば全

校生徒。という場合もあるだろう。しかし、それらの子供は親がいるので

はない、親がいない。

 結梨は表情を引き締めた。

「命の危険性とかは……」

 クラリスは笑う。とても鮮やかに。

「ナナセ様がいらしてから変わりました。以前は餓死者も少なくありませ

んでしたけれど。

 今は拙いながらも精一杯生きております……みんな、ナナセ様を敬愛

しています」

「そ、そうか……けど、孤児を受け入れる施設とか、そういうのってないの?」

 結梨の言葉にクラリスは首を傾げた。

「戦えぬ子供たちを収容してどうするのですか? 兵士を育成するには、

時間が少々足りません」

「ちがくて……子供は子供だろ? ちゃんと大人が――」

「ユーリ様は」

 クラリスのめがねの奥の瞳が不敵に光る。それは先ほどまでの穏やか

な笑みを忘れてしまいそうになるほどの――とても、底冷えするような瞳

だった。

「とても、平和な国からいらしたのですね」

 緑色の髪を揺らし、窓ガラスへと手を這わす。いつの間に陽が暮れた

のか、もう世界の半分が闇に呑まれていた。街灯、というものが殆どな

いニヴルヘイムの街から人影が消えていく。

「悪いことではありません。けれど、この国のやり方というものがある、

魔族という存在が――いうことも、見知りおきください」

「魔族は……親がいなくて淋しい、とか……ないのか?」

 声が震えてしまった。結梨は自分の不甲斐なさに歯を食い縛りながら、

それでもまっずにクラリスの目を見つめた。紫苑の瞳が細められる。

「魔族それぞれ、です。人間と同じですよ、根本的なところは」

「……そ、そうか。あー……悪い! オレ、ちょっと……用事が」

 我ながら情けないイイワケだと思った。けれど、これ以上この場にはい

られない、と判断した結梨はクラリスの返事もまたないまま、踵を返して

走り出す。

 なんだか恐かった。

 魔族が得体の知れないものに感じられた。同じだというのにまったく違う。

 とても、とても、恐ろしかった。

「おい、深山!?」

 

 聞き覚えのある声にぶつかって、結梨はようやく顔をあげる。走りなれ

ているおかげか息は乱れていないけれど、胸は苦しかった。

 結梨は夕莉を、どこか疲れている幼馴染の顔をまっすぐに見詰めて、

「…………オレ……地球に、帰りてぇ……」

「深山……」

 結梨の言葉に、彼女がどんな表情をしたのか。

 まったく見えなかった。少しばかり遅れた城内の灯火は、大切な何かを

見失わせるに十分な時間だった。

 

 

「お前の居場所はここにもあるのにか……?」