美しき、水の国。

 汚れなど存在しないかのようなその国に攻め入るは、僅か数十人

の魔族の小部隊。

 それらを統べる少女は凛とした声でまじないの言葉を紡ぎ、祝福

された水までもを武器に行進していく。それに続くは、四人の力ある

魔族とその部下たち。

 迷いをなくした少女の瞳には、ただ一つの目的しか映らず去年より

も成長した彼女の体には、無数の傷痕が生々しく残っていた。その上

に重なるようにして、新たな傷が刻まれる。

「ナナセ様! 手当てを」

 黒に近い灰色の髪の少女の言葉に彼女は無言で首を振る。まだ、

必要ない――その意図を読み取ったか少女は軽く頭を下げると、自

分のいるべき立ち位置へと戻った。

 その手が、微かに動いてこちらを窺っていた弓兵の胸へと水の弾

丸を飛ばす。

 低い呻き声と同時に隠れていた二人の人間が重なり合って倒れる。

 血の臭いが漂い、美しい調度品と水で整えられた大広間はざわめ

きに満ちた。そこにいるのは貴族と呼ばれる存在と、この国を治める

女王――

 彼女は血の滲む唇を開いた。

「女王ミーミル。アンタの首を獲りに来た」

 その響きに貴族たちがざわめく。それらをすぐに殺したりはせず、先

ほどの少女が――メーアは真剣な表情で周囲の水を刃へと変え、数人

の貴族たちの喉下へとあてがう。金属と殆ど変わらないような、冷たい感

触に短い悲鳴をあげる初老の女性がいた。

 四方に散った他の三人――シュテルン、ヒンメル、ゾンネはそれぞれの

武器を手に、抵抗をさせる気はないという意思を見せていた。

 背後に滝が流れる玉座に腰掛けていた女王は、純白のヴェールを外し

てゆっくりと立ち上がる。追い詰められた状況だというのに、動揺したりは

せずに王族としての誇りを失わぬ、凛々しい動作で。

「戦う前より我らの敗北は目に見えていた」

 呟くように告げる女王。

 その言葉に夕莉は顔を顰めた。

「なら、なんで戦いを仕掛けた? バカかアンタは」

「バカ……ふ、なんとでも言うがよい。私にはすべきことがあった」

 笑みを浮かべる女王。

「病に倒れし我が息子を救うべく、我が水の民は戦ってくれると言った。

 私はその気持ちを無駄にせぬため――」

 夕莉が地を蹴る。刹那、大鎌が彼女の足をすくい、そのまま大勢の貴

族たちによって守られているかのように立っている女王の目前まで一気に

距離を詰める。

 漆黒の瞳が女王の澄み切った青い瞳を捕える。

「ミーミル様ぁっ!!」

 誰が叫んだか。

 その叫び声を掻き消すかのように、血が噴出す音が派手に響く。それ

は幾重にも重なりまるで、それ自体が合奏であるかのように一定の音を

奏でていた。

 倒れる、重々しい音が五つ。

 血飛沫を浴びてもなお、凛々しい目のままの女王。

 それを見る夕莉の唇が笑みの形に歪んだ。

「――グレイの情報は正しかったようですね」

 ヒンメルが口を開く。その手には血に染まったロッドが握られ、足元には

頭部を変形させて死んでいる赤い鎧に見を包んだ大男。

「病に倒れた皇子を救うべく、戦うことを選んだ女王陛下。麗しい限りだな」

 シュテルンが手を開けば、そこには引きちぎられた肉片が赤い汁を滴ら

れながら床へと落ちる。転がっているのは赤い鎧の大男。

「吹き込まれた、という情報も間違ってはないようだ」

「ニヴルヘイムにしか薬はない、との誤報ですね」

 ゾンネとメーア、それぞれの足元にも赤い鎧の大男が倒れている。それ

らがまったく同じ顔をしていることを確認すると夕莉は、大鎌に体を真っ二

つにされて事切れている大男の死体を蹴り飛ばした。

 水の中へと落ちる、上半身。

「ニヴルヘイム、これは国の名前と同一だ。僕は王に会ってなくてな――

けど、決定権は持ってる。簡潔に言ってやるよ。

 アンタのガキを助けるための薬なんざこの国以外なら溢れてやがる」

 吐き捨てるように告げる夕莉にミーミルは双眸を見開いた。

「なに……では――」

「閉鎖された国ってのが祟ったな」

「……謀られた……ということか……」

 どこか、怒りを帯びた言葉。彼女はさらに言葉を続けた。

「赤い鎧の国がアンタらとニヴルヘイムを戦わせて、弱った所で漁夫の

利ってヤツだろな」

「…………く……」

 悔しさに唇を噛み締める女王。

 夕莉はニヴルヘイムを出る前に受け取っていた小さな袋を取り出した。

どれだけ返り血に塗れようとも、それだけは汚さぬように何枚も何枚も布を

巻いて、守った包み。

「取引だ。僕らと手を組め、そーしたら助けてやるよ」

 ――民も、ガキも。

 そう告げて笑う夕莉の顔を見下ろして、女王は歯を食い縛った。

「誘いに乗ろう……魔族と、水の民は……」

「そのようなことをすれば我々は他の国に示しが!!」

 誰かが叫んだ。それに伴って悲鳴のような声の数が増えていく。それらが

いっさい聞こえないかのように、女王は強い意志を秘めた眼差しで夕莉をまっ

すぐに見た。

「水の国の女王ミーミルとしてではなく、我が子を思う母として。

 私はニヴルヘイムの手を取ろう」

 差し伸べられた手に、夕莉が子供のような笑みを浮かべる。

「いい母親だな、アンタ」

 手渡した袋を握らせて、彼女は目だけで四人へと指示を与える。

 最初に動いたのはシュテルンのようであった。白い髪を揺らして人ごみの真

ん中へと飛び込む。

 悲鳴が上がり、騒ぎに紛れてメーアが姿を消す。ヒンメルは閉じたままの両

目を、騒がしい人ごみの中へと向け口の中で何かを呟いている。

「さて……おい! 反乱の種は潰さねぇとな?」

 ゆっくりと、振り返る夕莉目掛けて向かうの矢が飛ぶ。

「双黒の娘!!」

 女王――ミーミルが叫ぶ。だが、夕莉はその場から一歩も退こうとはせずに、

ただ唇を笑みの形にゆがめただけだった。風を切る、矢の音は止まらずに目

標目掛けて飛んでいく。

「なるほど、少々結界が厚すぎたようですね」

 冷静な声でヒンメルが呟いて、開いていた手の平をゆっくりと閉じていく。水

を媒体に作られた壁が圧縮されていき、中に閉じ込められた矢を砕きながら、

小さく小さくなり――消える。そのすぐ後に聞こえるのは呻き声と、人が壁に

叩きつけられる音。

 既に気を失っているそれらを捕縛しながら、ゾンネが口を開く。

「これは水の国の者ではないようだな」

「スパイが紛れてたってのも合ってるな。グレイのヤツ絶好調じゃねーか」

 矢を放った男女を蹴り飛ばしたらしいシュテルンがケラケラと笑う。緊迫

した空気は取り払われ、すべてが終わるように思えた――が。

「あの子が危ない!!」

 ミーミルが血相を変えて走り出そうとするが、その手を掴んで夕莉が引き

止める。

「放せ、あの子が――!」

「不必要、ニヴルヘイムの魔族は抜け目がねぇからな」

 彼女の言葉が終わるとほぼ同時に、メーアに抱かかえられた少年が姿を

現す。熱にうなされている顔で、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。

「ほら、とっとと飲ませてやれよ」

 トン、と背中を押して夕莉が手を放す。

「……恩にきる」

 我が子へと駆け寄り、ミーミルは受け取った薬を息子の口へと流し込む。

苦かったせいか小さく嫌がる少年を宥めて、彼女はそれを飲み干した自分の

息子を抱き締めた。

「スイ……」

「これで安心です」

 ニッコリと笑うメーアの頬には、僅かだが返り血がついており、この皇子

の部屋がどういった状況かは容易に理解できた。ミーミルはその双眸に涙

を浮かべ、頭を下げた。

「よし。一年で戦争に決着つけた!

 後は平和条約とか、そんなもん決めて仲良くしてこーや」

 両手を振り上げて伸びをしている夕莉。

 安心しきっている彼女たちを裏切るかのように、疾風のような少年が駆

けた。

「――!!」

 玉座へと磔にされるような形で、夕莉の腹部を短剣が貫いている。

 口からゴポリと血泡が溢れる。震える手で彼女は少年の髪を掴んだ。

「……り、ゆう……は?」

 涙を溜めた少年は嗚咽を上げながら、

「とうちゃん……返せぇっ!! 魔族め!!」

「そうか、そうか……父親想いのガキだな。けどよ……」

 短剣を引き抜いて、夕莉はゆっくりと少年を抱き上げる。事態を見守る四

英雄の末裔はそれぞれの思惑を秘めた瞳で彼女を見ていた。

「僕は……」

 漆黒の髪が揺れる。血で固まった一房が震え、強い意志を秘めた漆黒の

瞳が細められる。

 

「人間だ――」

 

 息を呑む、人間たち。

 厳しい目つきで彼女を見る魔族たち。

 二つの視線に囲まれたまま、彼女はその場に倒れた。ただ一言――

「早く……会いたい……」

 掠れた声で、そう告げて。

 

第一章「おいでませ、異世界」完