――世界は神によって支配されていた。 自らの眷族である天使を従え、大地にもとより息づいていた者たちに魔族と名づけ、虐げる。その天からの雷で気まぐれに虐殺する。
 その日々を覆さんと、決意した男がいた。
 名はアスタロト。この世界に名前がつき、彼らが誕生し、国が生まれた。
 その二代目となる王。
 彼は大地に息づく、すべての同胞を従えて神を打ち倒さんと立ち上がった。
 その手には祝福の剣を。
 傍らにはいと賢き友を。
 その胸には幾千万の民の心を。
 神の支配から逃れるために。

 ――これにより、二百年に渡る神と魔族の戦いが始まる。


 荒廃した大地。焼き尽くされた動植物たちが修復されるのにどれだけの月日がかかることか。つい数時間前まで響いていた数多の悲鳴と断末魔の叫びに耳をやられそうだ。女性と少女の間くらいの年の娘が耳へと手を当てる。
 その肩には月と太陽をモチーフにした杖がかけられており、彼女の華奢な体の周囲には細身の剣が浮遊していた。一見すれば不可思議な娘、しかしその身に宿す闇の色は彼女が魔族である、ということを言葉が必要ないほどに説明している。
 娘は口を開く。
 紡ぎだされるのは淡々とした、感情がないようにも感じられる声。
「降りて来なさい、大天使ミカエル」
 その言葉に応えたのか、茜色の空を一対の純白の翼をもった男性がゆっくりと降りてくる。美しい金色の神と青い瞳――恐ろしいほどに整ったその顔は、彼女が一般的な生活をおくっていたならば見惚れていたのかもしれない。ソレほどまでに美しい顔に僅かな怒りを浮かべ、ミカエルと呼ばれた男性が口を開いた。
「そなたがあの部隊を率いる将か」
 娘は一言も言葉を返さずに、その杖を振り上げた。
「夢浅葱」
 小さく呟いて、その杖の先端へと意識を集中させる。
 脳裏に描くのは風が、目の前にいる大天使を切り裂くイメージ。
「真なる子供は目に見えず。肌で知れ、幼き子らの慟哭を」
 紡がれた言の葉に反応し、大気中の風の精霊たちが活性化して大天使の白い皮膚を切り裂いては笑い声を上げて飛び去っていく。大天使とは言えど、精霊の動きは見切れないのかその純白の衣を血に染め上げて、短い悲鳴をあげ続けている。その姿を眺めているだけではなく、娘は再び口の中で言の葉を紡ぎ始める。
「我は夜を統べし王。
 知るならば力をよこせ、闇へと堕ちよ。すべての者」
 掲げられる、月と太陽をモチーフとして作られた長い杖。その先端に闇が生まれ、膨らむ。その闇を恐れるかのように風の刃が離れていく。
 一瞬、ほんの一瞬だけミカエルの周囲は虚無となった。
「その白い羽を闇色に染めてみせよう。我が王に捧げる供物として」
 淡々と紡がれる言葉。
 振り下ろされる、闇の球。
 ――絶叫が、血塗られた大地に響き渡った。

「………」「どうした、ネビロス。浮かない顔だな」
 真紅のマントを翻して、天使かと見紛うほどに整った顔をした美青年がブーツの底を打ち鳴らすようにして近づいて来る。ネビロスと呼ばれた
漆黒の闇色の瞳の中に知性を称えた青年が、視線を彼へと移した。
「陛下…いえ。なんでもありません」
 クセなのか、目元を指で押し上げるような動作をしながら、彼は立ち上がった。今日の戦闘では出番がないということを悔やむように、時折り茜色に光る西の空を見た。
「ずいぶんと、凄まじい戦闘のようだな」
 チラチラ、と気にするネビロスに気付いたのか、天使のような外見の陛下――といわれるからには王であるのだろう。彼は白い歯を見せて笑った。その顔を見ながらネビロスが溜息を吐く。
「最後の大天使を潰す、と言っていましたからね……彼女も全力で臨んでいるのでしょう」
「負ける心配はするな。キルケは精霊に愛された大魔女だからな」
 屈託のない笑み。その笑みにネビロスは顔に浮かべていた暗いものを消し去った。目を細めて笑う。その耳に轟音が轟いて、精霊たちの笑い声が聞こえる。
 それだけの魔術を駆使しているのだろう。
「神を倒せば、俺たちは自由になれる。
 この荒廃した大地を蘇らせ、魔族の生きる場所ができる」
「急になんですか?」
 いつの間にか、隣に立って同じ方角を見ていた王へと視線を移すネビロス。
「いや。お前らがいてよかった、と言ってるんだ」
「何を言っているんだか………私も、キルケも。 魔神王アスタロト様に仕えるためにこの城に来たんですよ」
「それでも、礼を言いたい気分ってのはあるのでな」
 クスクスと、笑い声を漏らす。
 彼の脳裏に浮かんでいるのは自分が城に賢者として招かれたときのことか、彼女が大魔女として城に迎え入れられたときか――恐らくは後者だろう。その口元に浮かんだ笑みが語っている。
 ネビロスは唇を少しだけ、きつく噛み締めた。
「キルケは本当に美しくなった。
 お前が連れてきたときなんて、血と脂と泥の塊だったからな」
 当時の姿を思い出しているのか、アスタロトは少しだけ苦笑を浮かべた。
「えぇ。天使たちの生息区域に魔族が生きていた、これだけでも奇跡だというのに。
 あの幼い姿でアレだけの魔力の暴走を引き起こして無事だったのですから…」
 ――天才、としかいいようがない。 そう付け足して、ネビロスは再び視線を西の空へと向けた。この空の向こうで戦う大魔女に想いを馳せて――
「ぐ……おのれ、魔族如きが……!!」
 ミカエルの青い瞳に一瞬だけ、淡い光が宿る。
「――……っ」
 ドンっ、と体の中で衝突音に似たものを感じて、娘は漆黒の双眸を見開いた。
 口の端から赤黒い血液が零れ、夜の闇で染めたかのような漆黒の衣の胸元を濡らしていく。小さく開いた穴は彼女の体の向こうの空を映し、とめどなく血液を溢れさせている。
「滅びろ、魔族。汚らわしい下等生物!!」
 血に染まった翼を羽ばたかせ、純銀の剣を振り上げる。
 風を切る音、死ぬ精霊の声。それらを耳に響かせながら娘は一歩も動かずに冷たい眼差しで迫り来る大天使を見据えていた。その唇が小さく言葉をささやく。
「紅雀――」
 刹那、茜色の空に純白の翼が舞った。それは白い羽毛を撒き散らし赤い、飛沫をあげながら果てのない空へと散っていく。翼をもがれたことによって飛ぶことのできなくなったミカエルが地面に転がる。先ほどまで翼がついていた場所をおさえて、絶叫を上げている。
「時間がないの。終わらせる――世界は、魔族を選んだ」
 彼女の言葉と、周囲に渦巻く光。
 それにミカエルは美しい顔をゆがめながら叫んだ。
「何を、何を言っている!!! 世界が、精霊たちが我々を見捨てるはずがない! 貴様らのような下等生物に味方するなど――」
「何を愚かなことを言っている――精霊は常に中立。 そして、常に変化のある方へ惹かれる。変化を止めた種族に滅びを……」
 肉の薄い、色の悪い唇が言の葉を紡いでいく。
 死への恐怖からか、這いずっていたミカエルは立ち上がり、純銀の剣を振り上げて躍りかかる――が、その一撃は紅雀と呼ばれた一振りの太刀によって防がれ、さらにその腕も翼と同じように空へと消えていく。飛沫が上がり、青ざめた顔をしたミカエルの瞳にまばゆいばかりの光が射し込んだ。
「それは大いなる恵――」
「馬鹿な!! それは、我々の……闇の眷属である、魔族に扱えるはずが!!!」
 ――万物に与えられし光に焼き尽くされよ――
 娘の瞳が、一瞬だけ赤く輝く。
「……罪人」
 それは、とても静かな声で。それは哀れむ声で。
「魔族も天使も、何が違うの? 
 アスタロト様の容姿はあなたたちと変わらないというのに」
「――――!!!  ばかな、馬鹿な、ばかな……うわああぁぁああぁぁあああぁ!!!!!」
 巨大な光の槍がミカエルを押し潰し、彼が護ろうとしていた壁を破壊する。ガラスが砕けるような音が響き渡り、それと同時に夥しい数の天使たちが向
かい来る。
 娘は手にしていた杖へと何かを囁いて、その唇に笑みを浮かべた。

――勝利を、信じています―― 

「――!!」
 ふいに、ネビロスの双眸が見開かれる。
 その視線の先をたどってみれば、キルケの部隊の副隊長が立っていた。
「エリゴール、なぜ貴女がここに!!」
 珍しく声を荒げるネビロスに驚いたのか、エリゴールと呼ばれた少女は少しだけ驚いてから、恥ずかしそうに俯いた。 
「怪我の経過がよくないので……キルケ様が休むように、と」
「経過がよくない……? それは、それは……
 ――キルケだって、同じことでしょう!!?」
「どういうことだ」
 ネビロスの言葉にアスタロトが口を開く。聞いていない、そんな話は一言も聞いていない。
「キルケは……キルケの魂はもう限界なんです。
 精霊王たちに食い荒らされ、彼女は彼女でなくなります……もう、彼女は……いえ、すでに女でもありません。そして、男でもない。感情も失いました。あとは……後は何を失うと思いますか?」
「……まさか……!」
 アスタロトがその青い瞳を見開いて、西の空を仰ぐ。
 戦闘が佳境に入ったか、一際大きな音が聞こえた。
「ネビロス様……」
「貴女の言おうとしている言葉は知っています。
 けれど、私はそれに応えません……私は、貴女にそんな感情を抱いていない」
 歯を食い縛り、溢れてくる何かを堪えようと手元の分厚い本を握り締める。エリゴールが泣くのが分かった。泣きたいのはこちらだ、と悪態を吐きたくなる。
 このようなことで失うのか。
 あの美しい夜を。
「陛下……お時間です。本隊を西へ……」
 脳裏に、勝利の声があがる。キルケの部隊の声が響く。
 あの爆音がトドメだったのか――そう理解するよりも前に、周囲に血の臭いが漂った。
「キルケ!」
 アスタロトの声が響いて、そのまま走り出す音が聞こえた。
 顔をあげれば、キルケが血塗れで立っている。生きていた――アスタロトは、そう希望を抱いたのだろう。だが、ネビロスの顔は苦痛に歪んだままだった。
「キ……お、おい……どうした」
「……」
 俯いたまま、何も言わない娘――キルケは砕けた杖を握り締めたまま、真紅に染まりきった瞳でどこかを眺め、真紅に染まりきった髪を風に揺らしていた。
「侵食です……精霊による、魂の侵食。彼女はもう……」
 ネビロスの言葉にアスタロトの手が震える。
「お、おい……ばかなことを言うな。 キルケは……キルケは、この戦の後、俺の后になって、共に永い時を過ごして。
 この国が美しくなっていく姿を共に見る、んだぞ……?」
「……事実です。彼女は、双黒の大魔女は死にました」
 アスタロトの腕が、キルケを抱き締める。
 血塗れのその体を労わるように撫でて、掠れた声で告げる。
「こんなに……なって。双黒じゃなくて、双紅じゃないか……」
「ネビ……」
「黙っていてください」
 エリゴールを跳ね除け、ネビロスはアスタロトの数歩後ろで待機した。
 彼へと告げられる言葉。
 それは彼が泣いているのではないかと思わせるような、震えた声だった。
「双紅の大魔導師キルケを魂水晶の部屋に。
 傷付いた魂を癒し、そしていつの日か再会を果たせるように――儀式を」
 ――その間に、神を倒してくる。
「はい。了解しました――陛下」
 まっすぐに、神を見据えるその瞳。
 その姿に精霊たちが歓喜の声をあげる。魔力ももたずに精霊を従わせる、無意識の最強王が出陣する。後に続くのは彼が無意識に集めた魔族たち。すべてが命をかけて戦うことを決意した。
 すべては――王と、自分らの未来のために。

 静まり返った城内。
 水晶の中にキルケを沈める前に、彼はまだ呼吸の止まっていない――死んでいるのに、生きているキルケの細い首へと手を伸ばした。
「苦しかったでしょう……哀しかったでしょう……もう、眠っていいんですよ……」
 ゆっくりと、止まる呼吸。
 生気を失った瞳は変わることはなかったけれど、彼女が肉体的にも死んだことを確認して、水晶へと沈める。その体が清められて、まるで眠っているかのような状態になる。
 もう、触れることも叶わない髪へと手を伸ばし、水晶越しに触れた気分になって。
 ネビロスは目を閉じた。
「私は……貴女を忘れません。何度転生しようとも、私は貴女に会いに来ます。
 あの滝の門を越え、貴女に会いに来ます……
 さようなら……私の、唯一愛した女性……また、いつの日か……」

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