酷く躯が重い。
 大好きな体育に出ることを躊躇うほどに。
 落ち込んだ面持ちで窓の外を眺めている早紀の肩に小さな手が置かれた。
「どしたの早紀、元気ないけど」
「……涼芽」
 小柄で笑顔のかわいい友人――涼芽は心配そうに眉根を寄せてこちらの顔
を覗き込んでいる。澄んだ瞳に映り込む自分の顔を認識した早紀は、少しだけ
バツが悪そうに席を立った。
「なんか……風邪?」
「そっかぁ。早紀がカゼひくなんて珍しいよね。
 保健室に行くの? おくってかなくて大丈夫?」
 上目遣いに首を傾げる。
 この仕草を狙ってやってるのだとしたら、涼芽はとんだ食わせ物だと思う。彼
女の良いところは、そういった愛らしい仕草を無意識にやってのける所だと前々
から思っているのだから。
「大丈夫だよ」
 遠慮しがちに手を振ると、涼芽は不貞腐れたように頬を膨らませる。
 やめてくれ、そんなかわいい仕草はしないでくれ。頭が痛くなる、胸が痛くなる。
 困惑している早紀の視界にを見覚えのある微笑が通り過ぎた。
「屋形、体育に遅れるから早く行った方がいいよ。
 先生に叱られるかもしれないしね」
「宮下……」
「幸樹くん!」
 パァッ、と花が咲いたような笑みを向ける涼芽。
 その笑顔に早紀の胸がチクリと痛む。まるでそのことを見越していたかのよう
に幸樹は唇にだけ笑みを浮かべたまま、
「副島は俺が保健室に連れてくからさ。
 安心して授業に行ってきなよ」
「でも……」
 もじもじと俯く涼芽。軽く赤みのかかった頬に気付かなければ良かった、そうす
ればこの痛みだってもっと軽かったに違いない。割れそうなほどの頭痛を感じな
かったに違いない。
「俺が信用できない?」
「そんなことないよ!」
 真剣な顔で幸樹を見つめる涼芽。
 ――やめて。
 思わず口を吐きかける言葉を飲み下し、早紀はフラフラと立ち上がった。
「……私、一人で保健室に行けるからさ。二人とも授業に行きなよ」
 掠れた声で告げることしかできなかった。
 学校なら、あの男も涼芽に何もできない――違う。むしろ、彼女はそれを望ん
でいるのかもしれないと思った。
 あの無邪気な笑みを恍惚に染めて、綺麗に整えた爪を背中に立てて、絡めら
れる舌を愛しげに感じることを望んでいるのかもしれない。熱を帯びた眼差しと、
身なりに気をつけて喋るその姿は、早紀では見ることのできない姿。
「……頭、いたいなぁ……」
 人通りのない廊下で小さく呟く。
 気が付かなければ良かったとも。
 勝手な騎士を演じていた方が幸せだったのかもしれない。大切な姫を守ってい
たつもりでいた愚かな騎士なんて現実は、見たくない。
 苦痛と、屈辱に塗れた愚かな騎士。
 あの熱を帯びた眼差しにもう少し早く気付いていれば――


「……ばかだな……私」


 保健室の白いカーテンを閉めて蹲る。
 頬を伝う涙は何の痛みだろう。
 ずっと近くにいたのに。
 どうして男に負けてしまうのだろう。
 男なんてあんなに最低じゃないか。特に宮下幸樹は一番最低じゃないか。
 あんなことを、あんな――
 ふいに脳裏を過ぎるのは涼芽と幸樹の睦言。自分がされたことと同じことを涼
芽がされる。
 甲高い声で啼いて、細い体をしならせて、慣れない痛みに顔を顰める。それで
も波のように押し寄せてくる悦楽に抗いきれなくなって――――
「……っ」
 脳裏に浮かび上がる鮮明な映像に体が震える。
 まるで火がついたように熱い。
「……やだ、よ……こんなの……こんな」
 まるで発情した獣だ。
 どれだけ発情したって、一番欲しいものは手に入らない。
「……なんで……」
 疼く下半身へと手を伸ばし、そこには何もないのだと――自分は受け入れる側
の人間であるということを再確認する。彼と同じことを彼女にできない。
 同じ受け入れる側の人間だから。
 何も、できない。
「……っう、う……く」
 何度も何度もされたように自らの敏感な部分を指先で撫でる。
 滲み出てくる蜜を指先に絡め、少しだけ強く擦れば、体が大きく痙攣を起こす。
女の自慰でしかないこの行為。けれども頭の中では早紀は女ではなくて、違うか
たちで涼芽と二人で睦み合う。
 自分にはない部分。
 それを自覚しているからこその痛み。
 指を押し入れ、内壁を擦って得る悦楽は自らが欲しいものではない。けれども
一度覚えてしまった蜜の味を忘れられるほど、早紀は子供ではなかった。
「あ、は……あっ、あ……」
 枕に顔を埋めて声が漏れないように気を張る。しかしその緊張感のせいか熱
を帯びた指が触れる箇所が普段よりもずっと敏感になっていた。背徳の心は快
楽を強めると幸樹が言っていたような気がする。きっとどこかの雑誌からの受け
売りだろうけれど、あながち間違っているようには思えない。
 現に指が止まらないのだから。
 これ以上はいけない、そうは思っても手は止まらない。
 頭の中で大切な友達を陵辱し、現実で自らを犯し、悦楽か悲しみかわからない
涙を零した。
「す、ず……すずめぇ……」
「そういうのって、俺の名前呼ぶべきじゃないの?」
「――っ!!」
「……あ、先生は外いってるから。俺とお前の二人っきりなわけだけど…………」
 白いカーテンを指先でもてあそんでいる幸樹の顔には微笑。期待に満ちた眼差
し、断れないと踏んでのことだろう――断る理由なんてなくなったというのに。
「……涼芽は、アンタのこと」
「屋形は俺のこと好きなんだよね?
 だったらさーお前りもよっぽどワガママ聞いてくれそうだよな。縛ったりとか、目隠
しとか」
「何考えて――」
「散々遊んでポイしてもいいよな? だってアイツ、俺のこと好きなんだろ?」
 満面の笑み。
 なんでこんなやつに――
 唇を噛む。こんな、性根の腐り果てた男に負ける理由が分からない。
 自分の方がもっと大事にできるのに。もっと優しく愛せるのに。
 なんで――
「副島」
 間近に迫る顔。
 不思議な魅力の双眸に映る早紀の姿は、女そのもので。
「お前は女。俺には勝てないんだから観念しろよ」
 耳の奥に響く幸樹の言葉を否定できなかった。
 頬に触れる大きな手。
 唇が触れて、濡れた手に舌を這わされる。ゾクゾクと背筋を這う甘い痺れに意識
が遠のきそうになった。
 こんなこと、自分は出来ない。
「屋形はお前のことなんて……って、おい……」
 ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
 悲しくて、辛くて、どうしようもない涙が止まらない。
「なんだよ。そんなに泣くこと…………」
「――たかった」
「は?」
 声が掠れる。
 泣きじゃくる声で告げた言葉は、幸樹の表情を少しだけ変えさせたけれど。
 そんなことはどうでもよかった。笑われても、からかわれても。
 どうでもよかった。
「男に……生まれたかった……」
 できないことを口にしているのだから。
 願望を、口にしているのだから。
「……副島」
 困り果てた顔で早紀の頬を伝う涙を拭う大きな手。
 欲しいもの、手に入らなかったもの。
「男だったら……すずめと……っ」
 泣きじゃくる姿を見て彼は何を思っているのだろう。
 何一つとして言葉を発さぬまま、その大きな手で頭を撫でた。抱き締めるように背
中へと腕を回し、震える肩を抱いた。
 欲しい。
 この包容力が欲しかった。
 大好きなあの子を包み込めるこの腕が。
「……もう……なんか、どうでもいい……よ」
 何も手に入らない。
 女の手では。
 女の姿では。
 こんな躯――いらない。
「そ……早紀」
 肩を抱く腕が早紀を抱き寄せる。
 額に口付け、頬に口付け、伝う涙を舌先で拭うと、真正面からその双眸を見据えた。
 真剣な眼差しは何を告げるのだろう。
「女のままでいろよ。俺に甘えろよ、屋形じゃなくて俺に……」
 真剣な顔で何を言うのだろう。
 抱き寄せられ、胸に顔を埋めろとでもいうのだろうか。そんなこと、ありえない――
彼はそれを知っているだろうに。
 なぜ、こんなにも真剣な顔で告げるのか。
「……早紀……!」
 包み込む腕を拒絶して。
 涙を浮かべた眼差しで彼を見た。なんて弱々しい顔をしているのだろう。
 彼も、私も。
「……――――……」
 小さく呟いた言葉。
 歯を食い縛る幸樹の姿。
 悲しそうに俯いて、何も言わなくなってしまった。
 無言のまま二人。
 行き場のない手は白いシーツを握り締めて。
 小さく聞こえた声は無音に飲まれ、消えていく。

「男に生まれなければ良かったよ……」
「女になんて生まれたくなかった……」


 ――あなたにあいしてもらえないなら……うまれたくなんてなかった。

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