「おはよ」
「お……おはよう」
 騒がしい教室内。騒ぐのはもっぱら噂に詳しい女子か、なにやらよ
からぬことを企んでいる男子と相場が決まっているものの、晶として
は朝っぱらから甲高い女子の騒ぎ声を
聞くのも、グフフと笑う男子の声を聞くのも好ましくなかった。
 その中で一人佇む陽介。その横顔は明るい笑みを浮かべ、昨日の
出来事なんて晶の夢であったかと思わせるほどに爽やかに手を振っ
ていた。
「六道、昨日は――」
「ん? 昨日がどうかした? つか、エリちゃん来てるからまたあとでな」
 エリちゃん――が誰を指すかは知らない。しかし陽介の様子を見る
に、気に入っている女子であることは間違いない。
 子供じみた笑みを浮かべ、掃除ロッカーの前で鞄を下ろしているショー
トカットの女子へと近づく。背後の気配に気付いたのか、エリちゃんらしき
女子は油とり紙を片手に陽介を振り返った。
「珍しいけどどしたの? 淋しいから遊んでーって?」
「そんなとこ。エリちゃんが恋しくなっちゃった」
「もー教室でしょ? そういうのは後で」
「後でなら何してもいい?」
「どうかなー? 陽介浮気性だし」
「エリちゃんが一番だってー今は」
「うっそだー」
 二人でじゃれあう姿は、年相応の姿。こういった二人組みは校内にも多
数存在しているし、酷いのにもなれば体育の授業だからと空いた教室で
致している輩もいる。
 恐らくは、この二人もその部類に入るのだろう。生徒でざわめく今日室
内、その隅とはいえども人の目がないわけではない場所で引っ付いて、
なおかつきわどい部分を触りあったりしているのだから。
「ほんとだよー。信じてってー」
 甘えた声音でエリちゃんの頬へと唇を寄せる陽介。
 あの唇がしたことを覚えてる。肌を啄ばまれ、敏感な部分を銜え、絶頂
へと導かれる。
 回数こそは劣っていても、その行為の濃さは負けていないとすら――
「いやいや……なに考えてんだよ、おれ」
 全身を駆け抜ける感情。
 この感情をなんと呼んだだろうか。とても嫌いな言葉で、とても身近な言葉で。
「……嫉妬?」
 男に?
 女に?
 陽介とくっつく女に嫉妬?
 あんなことをしといて女と遊んでる陽介に嫉妬?
「……いやいや」
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 同性なのだ。女の子が恋しい日があることくらいは理解できる。
 一人寝が淋しいからといって袋とじのついた雑誌を布団に引きずり込みた
くなる気持ちだって理解できる。もちろん、その写真の中身が生身だったらと
思う気持ちだって――
 ならば。
 ならばなぜ?
「……マジ……わかんね」
 髪の毛を握り、眉間にシワを寄せる。
 その間にも陽介はエリちゃんと楽しそうに談笑し、二人で手を繋いでどこか
へと行こうとしているというのに。次の授業は教室だから、きっと向かう先は
人気のない理科準備室なのだろう。
 あそこは狙ってる生徒も多数いるという噂を聞いたことかある。
「六道!」
 ドアを開けた陽介を思わず呼び止めてしまった。
 エリちゃんがきょとんとした顔で陽介と晶を見比べ、
「陽介……三科と友達だったの? なんか意外」
 ぽつりと呟いた。
 そうだろう。確かに二人の間に共通点なんてものはないし、同じクラスだか
らと会話したことだって少ない、ないに等しいくらいだ。
 しかしこのクラスメイトの女は知らないだろう。昨晩の出来事なんて――決
して誇れることではないと内心で気付きつつも、晶は胸を張って一歩前へと
踏み出した。
「次の授業、出とけよ」
「なんで?」
「受験のことだってあるし」
「俺さー大学行かないし」
「ダブったら大変だろ」
「出席日数余裕だし」
「先生の評価だって」
「真面目だなー」
 肩をすくめ、鼻で笑う。
 その反応に苛立たなかったといえば嘘になる。しかし、それは自分の生き
方を否定されたような怒りではない――もっと、もっと単純なことだ。
「つかさ?」
 肩をすくめたままの陽介の視線が晶へと刺さる。
「お前に関係なくね? 俺はエリちゃんと遊ぶからばいばーい」
「ばいばぁーい」
 二人で手を振って歩き出す。
 繋がれた手を楽しそうに振って歩いている。
 チクリと胸が痛んだ気がした。理由は――漠然とした答えは浮かぶけれど、
ハッキリとした答えが見えてこない。
 苛立ちと、胸の痛みは連動していると思うのだが。
 答えが見つからない。方程式なんてありそうにもないのに。
「はぁー……あ」
 深い溜め息を吐いて、晶は自分の席へと向かった。
 しばらくした担任が来た後も、授業が始まった後も考えるのは胸の痛みの
原因。苛立ちの原因。ノートこそはとっているものの、上手い具合に頭の中
へと入ってこない。
 すべてが文字の羅列として流れていってしまう。
「はー……」
 机に突っ伏して、目を閉じる。
 真っ暗な視界の中で浮かび上がるのは、昨晩の陽介の姿。女子と遊ぶと
きのような軽薄さではなく、もっと絡みつかれるような―― 一度触れたら二
度と離れられなくなりそうな。
 妖艶でいて残酷な何かを感じた。
 何かによく似ている。
「……はぁ……」
 溜め息が止まらない。きっと向こう二十年分の幸せが逃げたに違いない。
 そんなことを考えている間にも、組み敷かれた状態で気持ち良さそうに声
をあげている陽介の脳裏に過ぎる。すがり付いて、今にも泣き出しそうな顔
をして、もっともっとと快楽を欲するあの姿が反芻され、軽い微熱が背骨を
伝って下腹部へと降り立つのが分かった。
「あ……やべ」
 ぼそりと呟いて下半身に起きた異変を鎮めようと方程式のことを考え始める。
「サインコサインタンジェント、半径×半径×パイ」
「三科ー!」
 目にもとまらぬスピードで投げられたチョークが晶の真後ろの席に座ってい
る男子へと直撃する。見事に粉砕されたチョークの粉を顔に浴び、日本語と
は思えない言葉を吐きながら直撃した男子がダッシュで教室を出て行った。
 一瞬にして教室内が騒然とする。
 その中で注目されているのは晶。
 机に突っ伏したままの彼を見下ろす教師は、酷く恐ろしい眼で淡々と告げた。
「数学の勉強するのはけっこう。
 だがな?
 今は英語の時間だ馬鹿者!!!」
 赤いジャージの似合う英語教師。
 絶対体育教師と間違えると大評判な体育会系エングリッシュティーチャー。
 彼に後頭部を思い切り叩かれた晶は視界がグラリと回るのを感じながら、
ゆっくりとその意識を闇へと堕とした。


 闇の中で声が聞こえる。

「やっぱりあたしのことなんてどうでもいいんじゃない?」

 酷く憤慨した女子の声。
 答えるのは落ち着き払った耳に心地良い低い声。

「どうでもいいとかそんなこと思ってないし」
「うそつき」

 冷たく返される言葉。
 鋭い刃物のような言葉に低い声はクスクスと笑みを漏らした。

「どうでもいいとか思ってないけど。お前ウザい。
 簡単にヤらしてくれんのは便利だけどさ? 何様? ぶっちゃけ、お前みた
いな三個でいくらな女に執着されても嬉しくないしさ?
 しつこいのはおねだりだけにしとけよ? 俺だっていつまでもお前のゆる――ぶっ!」

 鈍い音。
 カーテンが思い切り開いて誰かが出て行く。残された低い声の持ち主は、ブ
ツブツと口の中で文句を言いながら静かにカーテンを開けた。
 足音、息遣い。
 間近に感じる体温。

「あんな女よりもお前のがよっぽど気楽だっつの」

 頬に口付けを落とされ、ネクタイに手をかけられる。
 今、目を開けて拒むべきだろうか。それとも受け入れてしまうべきなのだろうか。
 彼が何を考えているのか分からない。自分が何を考えているのか分からない。
 感情が交錯する。
 足元がぬかるんでいるかのように不安定だ。まっすぐに立てる気がしない。
「なぁ? 三科」
 唇にやわらかいものが触れる。
 とても同性とは思えない唇の感触。するりと入り込む舌の熱さと、ワイシャツ
の中へと侵入してきた指の冷たさに冷めたはずの熱が蘇る。
 触れられたそこから命が芽生えるかのように――
「り、りく……どう?」
「起きてた?」
 悪びれのない微笑。
 指先は晶の肌の感触を楽しむかのように前後している。
「……お前、さっきの子のこと好きなんじゃ――」
「は?」
 一瞬、目が物凄く冷たくなった。
 まるで見当違いなことを言われ、人知れず怒るかのような。分からない人には
分かることのない怒り、冷徹な眼差しで見据えられた晶は思わず息を呑む。
「あのさ? 勘違いすんなよ」
 しなやかな指先が頬を撫でる。
 浮かべられた冷たい微笑は、彼の本心を知っているのだろうか。
「俺が誰かを好きになるわけなんてないだろ?」
――俺がお前を好きになるわけないだろ?――
 チクリと胸が痛む。
 そう、言われたわけではない。けれども――言われたも同然だと。
「じゃあ……なんで、こんなこと」
「なんでって……」
 唇を舐められる。
 ズボンのファスナーを下ろされ、ベルトを外される。そのまま下着の中へと陽介
の利き手が入り込んできた。
 唇に浮かべられる妖艶な微笑。
 脳が警告を出している。
 けれどもう遅いのだと。
「気持ちいいこと好きだし」
「ん……っ」
 敏感な部分に指先が触れる。
 熱い舌は首筋を這い、その薄い胸を押し付ける。
 圧し掛かる体重に心地良さを感じてしまうのは、もう戻れないということを感じさ
せる。この体重も、この舌の熱も、この指の感触も。
 ――すべてが愛しくてたまらない。
「六道……」
「三科。凹むなって」
 もう一度口付けられる。
 間近で見る妖艶な微笑は、その脳裏にハッキリとした映像を浮かび上がらせた。
 繊細な糸で獲物を絡めとって。
 逃げられないように。もがけばもがくほどに絡みつく糸を張って。
 動けないようにしてしまう。
 捕われ、逃げれぬまま命を吸われ、やがては死に至る。
 生きたまま喰われるとはどのような気持ちか。
 知らない――けれどきっとこれと似ている。


 妖艶に笑う蜘蛛のような男。

「俺、お前のことけっこう気に入ってんだから。
 もっと遊ぼ? もっと気持ちいいことしてさ」


 逃れられないと悟った。
 しなだれかかる愛しい蜘蛛の体を掻き抱いて、いっそ粉々にできたらいいのに。
 からめとられた獲物とせめて一つに。


 この抱擁は、まるで堕ちていくようだ――――