大きな鎌を磨いて愛してあげましょう。
 切り落した首に口付けを。
 激しい愛撫と深い孤独を溶かして抱いて。
 愛しいあなた様を殺して殺めて食べてしまいましょう。
 愛しているのよあなたのすべてを。
 冷たい地面に伏して、血反吐吐いて懇願してよ。
 甲高い笑い声で迎えてあげる。
 絶望するまで愛してあげる。
 ねえ――おいで?
 抱き締めてあげる。
 愛してあげる。
 抱いてあげる。
 イカせてあげる。


 二度と、目覚めないくらいに。




「あははっ……なんで泣いてるの?」
 限界まで見開かれた漆黒の双眸。血のように充血している二つの眼球は、
泣き腫らした娼婦のようにすら思えた。目の前で笑っている少女は一度として
涙を流したことなんてないというのに。
 いつでも笑って、笑って、壊して、叫んで、すべてを壊すことだけで自らを満た
していた。
 それは、まだ制服が初々しい二年前から変わることなく。
 灰色の制服を汚して笑うその姿を――今でも覚えている。
 裕樹はワイシャツの袖を弄っている香奈の顔を仰いだ。二年前よりも少しだけ
大人びて、少しだけ痩せて、少しだけ――本当に少しだけ、目付きの変わったク
ラスメイト。
 通う学校は違うけれども、何度も何度も姿を見ていた。
 友人と遊んでいる姿も、悲しそうに死んだ猫を抱いている姿も、何かを探してい
る姿も。
 色んな姿を見てきた。そんなこと、彼女は一切知らないだろうけれど。
「ねぇ、なんで泣いてるのー?」
「いっ……」
 二の腕に歯を立てられる。
 どこか狂気を孕んだ二つの眼に映っているのは、手足の自由を奪われた自分
の姿。夏休みの体育準備室、初めて同じ学校に通うことになった二人を出会わせ
た場所。
 ――香奈からすれば、人生の中で一番最悪最低な場所。
 少なくとも裕樹はそう思っていた。
「ねえ、吉崎くんってばぁー? 無反応なんてやだよー? もっと遊んでくれないと」
 大きな瞳で顔を覗き込む香奈。かすかに薫る薔薇の香りは、きっと自己紹介のと
きに告げていた好きな香水とやらの匂いなのだろう。
 こんな場所で感じなければ、こんな時に気がつかなければ、とてもキレイな思い
出として記憶で来たに違いない。鼻先が触れ合うほどの距離にある香奈の顔は、
何を楽しんでいるのか、何を見ているのか分からない表情を浮かべており、その
顔は今までの人生の中で一度も見たことのないものだと裕樹は息を呑んだ。
 思うように声が出ない。
 薬を盛られたわけでもないというのに。
 手足だって、体育用の縄跳びで軽く縛られているだけだというのに。
 どうしてこうも体が重いのだろう。
 抵抗ができない。
 声が出ない。
 何も、分からない。
「吉崎くーん? あんまりだんまりしてると、私だってイジワルするよ?」
 硬いマットの上にヒザで立っていた香奈。その柔らかい双丘が裕樹の腹を圧迫
し、スカートとその奥にある薄い布越しに伝わる体温と、感触を感じさせる。
「ねえ、吉崎くーん?」
 しなやかな指先が裕樹のワイシャツのボタンを外していく。一つ一つ、丁寧すぎる
のではないかと思うほどに、そして同時に胸の奥に熱い何かを宿らせるような手つ
きで外していく。
 これと同じことを何度やったのだろう。裕樹の胸に生まれた疑問に気付く素振りも
なく、香奈は真っ赤な唇に深い笑みを浮かべた。
「吉崎くんは、私のデッサン画見たことある?」
「デッサン……」
 ぽつりと声が漏れる。
 入学して間もない頃に展示されていた作品だろうか。この学校のサッカー部に所
属している先輩を描いたものだと聞かされていたあの作品であるならば、素晴らし
い出来栄えだったと思う。
 芸術面に疎い裕樹ですらあの絵の前では、しばしの間足を止めて眺めてしまって
いたのだから。
「昇降口の所に展示してあったやつなら」
「そう! それっ!!」
 途端に跳ね上がる香奈の声。
「あれねっ、先輩に頼んで描かせてもらったの。受験しに来た時から一ヵ月の間、
ずーっと描かせてもらってたの!」
 声はどこまでも嬉しそうにあの絵のことを語っているのというのに、なぜだろう。
香奈の顔は次第に笑みをなくし、唇が細かく震え始めた。
「あのね、吉崎くん。
 私、デッサンには自信あるんだ」
 細い指が裕樹の胸の皮膚へと触れる。
 少しだけ体温の低い手は、体温の高い肌へと触れると、躊躇うように指先だけを
滑らせる。くすぐったい感触に身をよじるも、四肢を拘束されている上に腹の上には
香奈が乗っている。
 身動き一つとれないわけでもないが、彼女を払いのけるほどに暴れることは不可
能に近かった。
「アゴから首にかけて、鎖骨のラインと胸筋と、腹筋のバランスがキレイな人を描く
のが大好きなの。ずっと変わらない、ずっと変わらない趣味だったの」
 香奈の指先がアゴを撫で、どこか躊躇いを感じさせる指先で鎖骨をなぞる。
 冷たい指が動くたびに背筋を電機のようなものが駆けていく。鳥肌がたつのは気
持ち悪いからではない――むしろ逆だ。しなやかで、柔らかい指が皮膚を滑るごと
に体が熱くなる。
 よくないことを頭の隅で考えそうになる。
 短いスカートから伸びる白い足と、真っ白な靴下を見る目が邪なものを髣髴させ、
全身の血が滾るのが情けないくらいに良く分かった。
「吉崎くんってキレイな体してるよね。
 描きたかったなぁ……吉崎くんの体も」
 長い黒髪が裕樹の腹の上に降りる。
 すべすべとした頬を肋骨に当て、まるで心臓の鼓動に耳を傾けているかのような
体勢で目を閉じた香奈の表情は、今にも泣き出しそうな子供にも思えた。
 ランドセルを背負ったまま、見知らぬ猫の亡骸を抱いて泣いていたあの日の姿と
かぶる。
「櫻井さ」
「こんなにキレイな体……私が描けるわけないけどね」
 吐き捨てるように呟いて。
 浮かんでいた表情のすべてを投げ捨てて。
 香奈の手の平が裕樹の両方を挟み込む。
「ねぇ、吉崎くんも同じこと考えた? 先輩と同じこと考えた?」
「なんの――」
「だって当たってる。
 吉崎くんも、先輩と同じ? 私がデッサン目的だと信じないでムリヤリ襲う?
 泣いてるフリして、純粋ぶって! デッサンのために触ったらその気があるって勘
違いする?」
 香奈の言葉に裕樹は絶句した。
 言い返す言葉は見つからない。事実、そんな邪な妄想を抱いてしまったのだ。
 人気のない場所で二人きり、四肢を拘束されて圧し掛かられて、肌に直に触れら
れれば、そう解釈したくもなる。しかし、彼女の言い分からすれば、先輩とやらは違っ
たのだろう。
 鈍くも甘い頭痛が裕樹を襲う。その刹那、脳裏に過ぎるのは、初めて香奈と言葉
を交わしたとき。
 体育準備室で呆然していた。
 衣服の乱れを直している先輩とは裏腹に、香奈は呆然と窓の外を見ているだけ
だった。
 内股を伝う赤い血潮も、足首に引っかかっていた下着も見えていないかのように。
「ねえ。吉崎くん?
 どうして泣いてるのか知らないけど。勘違いしないでね、私は吉崎くんのこと好きに
なんてなってないから。ただ描きたい体だと思っただけ、先輩とよく似た体してたから。
 辛いこと全部忘れられると思った。
 吉崎くんを襲ったら、モヤモヤした気分がなくなると思ったんだ」
 壊れた笑顔を浮かべる香奈。
 日曜日の体育準備室――スポーツ系の部活をしている人間だけが知っている噂話。
日曜日の午後四時に体育準備室へ行くと、美術部を追い出された女子生徒がモデル
になってくれる人間を探してる。モデルになったらそのお礼としてヤらせてくれる――テ
ニス部に入部して半年経った頃に聞いた噂話。
 夏休み、日曜日の体育準備室。
 部活を終えて、帰宅しようとした裕樹の下駄箱に入っていた一通の手紙。
 書かれていたのは体育準備室で待っているということだけ。
 自分の意思で彼女のモデルになることを選んだのは間違いない。けれど、他の男た
ちのように目的をもっているわけではなかった。
 ただ純粋に、香奈に会いたかった。
 教室では会えなくなってしまったから。
 ――それだけだったはずなのに。
 胸の奥が苦しくなる。どうすればいいのか分からない、悲しいよりも苦しい。
「なんで泣いてるの?
 あ、もしかして縛られてるのがちょっと嫌? けどごめんね、吉崎くんは力もあるし、
体格もいいから。乱暴にされたら困るし……だから悪いけどこのままね。
 吉崎くんが動かなくてもいいようにするから」
 薄笑みを浮かべて。
 腹を撫でていた手の平がベルトを掴む。
 滾る血の集中している場所へと迷わず進むその手は、彼女の歩んできた道のりを
如実に表しているのだろう。布越しに触れられるだけで胸が苦しくなる。
 歯を食い縛って、そこから先の感情を遮断しようと目を閉じる。
 自ら閉ざした視界。
 闇の中でファスナーを下ろす音だけがヤケに響いて聞こえた。
「へー。あんまり毛深いタイプじゃないんだね。
 その方が私も嬉しいけど。あんまり剛毛だと口に入ってウザいし」
 クスクスと笑い声交じりに告げられる言葉。
 気恥ずかしさと、硬くなり始めた陰茎を小さな手の平で包まれた感触に息を呑む。
自分で触れるのとは大違い――手の大きさも違えば体温も違う。
 ならば当然だと思わなくもないが、気持ちの問題というのもあるのだろう。
 恋人関係でもなければ合意の上でもない。
 どこか背徳的なこの行為。甘くも苦い、胸のざわめき。
「大人しくなっちゃったけど……吉崎くんって、あんまり遊んでない?
 テニス部の人ってみんな遊んでると思ってたけどなぁ」
 意外、といったニュアンスで呟く香奈の指先が先端を軽く擦り、余っている皮越しに
その奥を擦り挙げる。
 手馴れた動きに物悲しさを感じるのは、裕樹の勝手な同情なのだろう。
 自分で触れるときよりも、初めて付き合った彼女が触れたときよりも確実に気持ち
よくさせる――といったことに貪欲な指の動きは、平静さを保とうとしている裕樹の意
識を徐々に侵食していった。
「んー? あれ」
 不思議そうな声を漏らし、その形を変えた裕樹の陰茎へと唇を寄せる。
 生暖かいと息が触れ、一瞬気が遠のいたかのような錯覚に陥るも、香奈が漏らした
言葉に現実へと引き戻された。
「吉崎くんってけっこー大きいね。
 口の中に入るかなぁ?」
「口っ……て!」
 慌てて目を開け、静止しようと口を大きく開けた裕樹。
 その双眸は、十八年間の人生でテレビの向こうでした見たことのないような光景を鮮
明に映していた。
 淡く色付いた唇が先端をぬらした陰茎を挟み込み、棒状のアイスを銜えるかのように
奥へと飲み込んでいく。それと同時に口の中の熱と、言葉にし難い肉の柔らかさと、絡
みついてくる舌の淫靡さに裕樹は、見開いた双眸を閉じることができなかった。
 漏れそうになった声を抑え、激しく呼吸を繰り返すので精一杯で、とても静止の言葉
を吐く余裕なんてものはなかった。
「櫻井……っ」
「ふぁーにー?」
 掠れた声で呼ばれた香奈が上目遣いに裕樹を見る。
 垂れてくる髪を耳にかけ、喉の方まで飲み込んだ陰茎を先端が唇に触れるまで引き
出すと、オマケとでも言うように唾液と先走りの雫で濡れた先端を舌先で撫でて、再び
口の中へと含む。
「ん……っ」
 まるでエロビデオの中のようだ――裕樹は朦朧とした意識の中で、両腕を拘束して
いる縄跳びを解こうと指を動かす。しかし、両足の間に顔を埋めている香奈の舌の動
きや、薄い布越しに伝わってくる僅かな湿り気に心乱され、思うように動くことができな
かった。
 その間にも張り詰める下腹部は、絶頂を求めて腰を浮かせる。
 そちらへ意識をもっていかないように数学の方程式を考えようにも、渇いた欲望は絡
み尽く舌と、熱い肉壁を求めて動いてしまう。
 情けなさに涙が出る。しかし、泣いているだけではダメなのだと。
 裕樹は、強く唇を噛み締めた。
「さくらい……っ、手……だけでも、外して……っ」
「えー? 力じゃ絶対に吉崎くんに勝てないし……」
「たの……ん、頼む、から」
 必死に懇願する。
 その間にも全身を廻る熱が出口を求めて蠢く。
 気を抜けば、香奈の口の中に射精してしまうことだろう。それだけはどうしても避けた
かった。
 理由を問われれば、カッコの悪いことしか言えそうにもないが。
「んー……やだな。
 せっかく楽しいのに。邪魔しないでいいよ、そこで寝てて? その方が気持ちいいと
思うし」
 唇を尖らせ、脈打つ陰茎を根元から舐めあげる。
 浮かべられる笑みは、すべてを諦めた女のもの。欲しいものも、願いも、未来も。す
べてを諦めた大人の笑みに見えた。
 とても十代の目付きには見えない。
 香奈の顔から視線をそらし、拘束された腕を見上げる裕樹。噛み締めた唇から真っ
赤な血が滴り、アゴへと伝う。
 それに気付いた香奈はかすかに顔を顰めると、そのまま今にも達しそうな陰茎から
手を放し、体ごと裕樹へと向き直った。
「何で泣いてるの? 唇まで切っちゃって」
 ケロッとした声音。
 先ほどからコロコロと変わる声色は、まるで彼女の心の中のようだと思う。
 傷付いた心を隠すようにいくつもの細かい傷を作って、悲しみに気付かないように
振舞う彼女の心そのものだと。
「……好きだ……」
「なにが?」
 口を吐いて出た言葉は、きっと受け入れられるものではない。けれども言わずには
いられない言葉だった。罪に意識に苛まれ、二度とこの口を開くことができなくなるよ
りも前に言わなければならない言葉。
「櫻井が……俺」
「私が好き? 冗談はやめてね、言っても縄とってあげないから」
「冗談なんて言わない。
 ……本当は、謝るのが先なんだけど……一年の時、一番最初に見つけた俺が……
もっと、上手くフォローしてたら。櫻井だって、美術部辞めさせられなくて済んだし……」
「なんのこと?」
 香奈が顔を顰める。
 本当に覚えがないのか、あの呆然とした横顔の時間の記憶がないのか。
「……先輩に……櫻井が――」
「……あぁ、あれ。吉崎くんだったんだ?
 ずっとだれだろうって思ってた……そっかー……吉崎くんだったんだー?」
 声のトーンが低くなる。
 どこか乱暴な手つきで縄を外し、赤く跡のついた手首に触れる。俯いたままの顔は、
どんな表情を浮かべているか分からないけれど、きっと笑ってはいないのだろう。
 なんせ、
「じゃあいいや。
 あんな場所見られてたなら……吉崎くんもいいや。勝手にして、したいようにすればい
いよ。
 私はもう……どうだって……いいし」
 紡がれる言の葉全てが震えていたのだから。
 自由になった両手画動くことを確認すると、裕樹は何度か拳を握っては開いた。手の
平へと流れる血液と、少しだけ冷静になった頭で俯いたまま顔をあげようとしない香奈を
仰ぐ。
 長い髪で隠れた顔。
 時折り震える肩。
「櫻井……」
 意を決して。
 拒絶されるのを覚悟の上で。
 細い腕を掴んで、その体を引き寄せた。
「なに?」
 引き倒され、腕の中におさまる香奈。動揺しているのか漆黒の双眸がせわしなく動き、
軽く潤んでいた。今にも泣き出しそうな表情というのとはまったく違うが、先ほどまでも壊
れた笑みよりもよっぽど良い表情を浮かべていた。
 その顔を自らの胸に押し付け、裕樹は一気に告げた。
「俺と……一緒にいろよ。
 先輩のこととか、全部忘れさせるし。楽しい記憶ばっかにするからさ!
 あんな先輩のことなんかよりも、俺のことを考えてくれよ!!」
 ――なんて格好悪いセリフだろう。
 自己嫌悪に陥りたくなる心を殴りつけて香奈を抱き締める。
 腕の中で小さな嗚咽が聞こえたような気がした。
「なんでぇ……?」
 小さく震えて、小さな手が両肩を掴んだ。
「なんで……私なんかに優しくするの?
 私、吉崎くんのこと…………」
「好きだから……ずっと、ずっと前から」
「ずっと前っていつ……?」
 震える声が問う。
 気恥ずかしい。
 上擦りそうになる声を必死に抑えて、せめて声だけでも格好良く。
「ランドセル……背負ってたころから」
「……童貞くんみたいな考えかただよね。
 遊んでないけど、ヤることヤッてるくせに……」
 ぽつりと告げられて裕樹は絶句した。しかし、そのすぐ後に聞こえた笑い声に胸を撫で
下ろす。
「吉崎くん」
「ん?」
 呼び声に顔をあげれば、鼻先が触れそうなほどの間近まで顔を近づけた香奈が笑う。
「ありがと」
 唇に軽く口付けられる。
 出口を求めて彷徨っていた熱が――



「……かっこわるいよ、吉崎くん」


 硬いマットに染み付いたこの日の秘密。
 二度と醒めないような悪夢はハッピーエンドに。
 次は二度と醒めることのない幸福な夢を。