入学式から二ヶ月。
 梅雨の時期になると体調を崩して休む人がクラスに何人か出てきた。
残念なことに比較的体が丈夫な時人は、のんびりと教室で窓の外にあ
る大学の校舎を眺めていた。
 兄の通う工業科がある大学校舎。時折り移動中の兄の姿が廊下の
窓から見える。
 いつも隣にいるのは、黒い髪が綺麗な女の人―――
 その存在に少なからず苛立ちを抱いているのは間違いなかった。兄
をとられた気がして腹立たしい。
 時人はムスっと頬を膨らませていた。
「高瀬? 何、ふくれてんだ?」
 ふいに頭上から声がし、時人はイスから飛び上がりそうになった。
「――?! な、なんだ……キミか……」
 平常心を保ちながら、返事をする時人。光一は首をかしげて時人の
視線の先を見ていた。
「あのメガネの人、お前の兄貴?」
「知ってるの?」
 うん、と頷く光一。
「オレの兄貴と同級生だったんだよ。何度か家にも来てたしな」
「ふーん」
 あの兄に友達がいるなんて思えなかった。確かに顔はいいが――メ
ガネとニヤけたあの笑いで、文集の「何となくキモイヤツベスト三」で見
事に一位を獲得していたのをよーく覚えている。
 ちなみに自分は嫁にしたいヤツ部門で二位だった。
 どちらも自慢にはならない。
「夜人さんって、けっこうモテたらしいしな」
 光一の言葉に時人の顔色が変わる。
「嘘だぁ」
「本当だって。兄貴に聞いてみるか?」
 光一の顔を見つめるが、彼が簡単にウソをつく人間とは思えない。時
人は唸りながら古い記憶を引っ張り出そうと頭を左右に揺らす。
 確か――バレンタインデーの日、紙袋に入ったチョコを持って帰ってきた。
「あぁ。モテてたね……」
「だろ?」
 勝ち誇った笑みを浮かべている光一を見上げながら時人は、胸の前
で腕を組んでいた。チョコをもらったことのない時人としては羨ましい限りだ。
「オレはお前のが好みだけどな」
「――――は?」
 突然の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「小学校の時から片思いしてたんだぜ。オレ」
 満面の笑みを浮かべている光一。兄とは別タイプの男だと思う――同タ
イプでも嫌だが。
 髪に手を差し入れられ、軽くアゴを持ち上げられる。次の時間が体育な
せいか教室には二人以外のだれもいない。
 時人は思ったよりも冷静な頭で思考を巡らせていた。
「嘘だ。僕……キミのこと知らないよ?」
「だろうな。お前…いつも夜人さんにくっ付いてたからな……遊びに誘って
もお兄ちゃんと遊ぶ。って断ってさ……家に来る時は夜人さんの付き添い
の時だけだもんな」
 自分たち兄弟とはタイプの違う――野球少年とか、そういうものを連想さ
せるような整った顔が近づいてくる。
「え……え……」
 脳裏に浮かぶ、おぼろげな記憶。
 兄の友達の純也兄ちゃんの弟の――光一くん……あ!
「嘘! 光一?! 泣き虫光一?!」
「当たり。大きくなっただろ?」
 ニッコリと笑う光一は、同時の弱々しいイメージとはかけ離れた成長を遂
げていた。昔は突付いただけで泣いてしまいそうな美少年だったのに――
いつのまに、こんなに健康的になっていたのか。
 人間の成長とは恐ろしい。
 自分たち兄弟が変わらなさ過ぎてるだけかもしれないが。
 時人は混乱しそうになる頭を落ち着かせながら、光一の唇を押し返した。
「僕……別にホモなわけじゃないから。女の子も好きだから」
 兄以外にあんなことされるのは勘弁だ。と言うわけにもいかずに、時人は
短く言葉を吐いた。
 だが、その言葉に光一は笑い声を上げていた。
「男もイケるんだろ? 夜人さんとヤってたんだからな」
「――……?!」
 思わず、眉根が寄ってしまった。
 表情を変えればそれが真実だとばれてしまうというのに。
「オレの家の窓から丸見えだったぜ?」
「…………」
 脳内で声がする。ヤバイ、と叫んでいる。
 バレることはなんとも思わない。男子校だから、そういう秘密を持ったやつ
の一人や二人いるだろう。たぶんいるはずだ。むしろいて欲しい。
 そんなことよりもヤバイのは光一が何を言い出すか、だ。
 オーソドックスなところで言えば、秘密にしてほしければオレと一発ヤらせ
ろー。とか言われるのだろう。バラされても構わないのでヤらない。それだけだ。
「夜人さんとヤるようにオレともヤろうぜ? そうしないと……」
耳元に唇を寄せられる。
「夜人さん……大変なことになるかもな。オレの兄貴、夜人さんに惚れてる
んだよ……」
 背筋に――悪寒が走った。
「夜人さんがグチャグチャに犯されて、傷ついてもいいのか?」
「……最低……」
 吐き捨てるように告げる。だが、光一は悪びれもせずに、
「お前とできるならなんでもするぜ?」
 それが当然であるかのように告げた。
「……クソっ」
 兄をかばう理由なんて見つからなかったが、あの女も気に入らない。光一
の兄が自分の兄を犯す、なんてのはもっと気に入らない。
 時人はキッ、と光一を睨みながら唇を重ねた。
「ガクラン……汚さないでよ」
「任せろって」
 唇に舌を這わせながら笑う光一。
 連続授業でしばらくは教室にだれも帰ってこない。
 学ランのボタンを外され、ワイシャツを脱がされる。
 開け放ったままの窓から涼しい――けれど、湿った風が舞い込んできた。


「ふっ……う」
 静かな教室に自分の声が響いている。
 全裸にされ、首をもたげてきたオスを咥えられている時人は大学の校舎を
眺めていた。胸がチクチクと痛む。
 理由なんて知らない。けれど、痛い。
「教室でヤるなんて、興奮するよな?」
「……そうだね」
 光一の言葉に返しながら無気力な目で窓の外を眺める。雲行きが怪しい―
―帰りまでに降らないといいな。
「……時人……そんな顔されると、さすがに頭に来るんだけど?」
「ヤらせてやってるでしょ……僕がどんな顔してても――――」
 光一の顔つきが変わる。怒っている? 激怒しているのだろう。
 乱暴に腕を引かれ、窓の縁に押し付けられる。
「そこから、愛しい夜人さんの顔でも眺めてろよ。夜人さんの目の前でお前を
犯してやるから」
「な、シュミ悪いよ!」
 時人の反論に聞く耳ももたないのか、光一は力任せに時人の柔らかな双丘
をつかんで左右に割いた。
「痛がろうが泣き出そうが……オレは止めないからな」
「ふざけないでよ……嫌だって!!」
 抵抗しようと、身をよじる時人。だが、あまり力の強くない彼の不自然な体勢
からの抵抗は、抵抗にすらならなかった。
 光一の熱く、滾ったモノが入り口にあてがわれる。兄と同じ――兄よりかは若
干小さいが、いつもと同じ―――否。違う。
 兄のように気遣ってなんて――
「ぅ……あ……」
 入り口がメリメリと嫌な音を立てている。激痛に意識が遠退く。
 悲鳴を上げて泣き叫んでいないのが奇跡の様だ。
「や……いた……痛い……よぉ……」
 声が痛々しいまでに掠れている。
 内股に生暖かい液体が走る。生々しい血の感触に涙が出た。
「濡らさないのは……さすがにきつい……な」
 腰に爪を立てて掴んでいる光一が息を乱している。時人は涙で滲む空と、移
動を始めた兄たちの姿を見ていた。
 気付いて――助けて。気付かないで――見ないで。
 自分のものかどうかすら判らない声が響く。涙がベランダ頬を伝って、コンク
リートが剥き出しのベランダに落ちる。
 後で光一が動き始めたのか、異物感が体内で動き回る。
「う……うぁ、ん……」
 痛みも、悲しみも、すべて無視して悦楽が迫ってくる。
 それに流されるように声が出た。
 時人のオスもしっかりと反応し、先走りの蜜を床の上に落としている。苦痛以
外は兄の時と何ら変わらない―――
「――!!!」
 視線の先に、兄がいた。
 ノートを抱えた兄が呆然と、こちらを見ていた。
 メガネの奥の瞳の感情まではわからないが、口元は珍しくきつく結ばれてい
る。怒っている時と――似ていた。
「夜人さん……見てるだろ? 大好きなお兄ちゃんの前でヨガれよ」
 光一のゴツゴツとした手が包むように、時人の陰茎を握る。
 前後から襲い掛かる刺激に我を見失いそうになる。だが、遠く離れた兄の視
線が意識をこちらへと縛り付ける。
「見ない……で……や、だぁっ……」
 首を振る時人。俯いて、涙を零すばかりだった。
 夜人がどんな顔しているのかわからない。けれど、見上げるように勇気もない。
 ただただ、痛みを伴う快楽だけが存在していた。
「夜人兄……っ――!!」
 体の奥へと吐精され、その刺激で自分も吐精する。全身を襲う気だるい脱力
感に、時人は立つ気力も起きなかった。
 犯された。そのことはどうでもいい。裂傷による痛みもどうでもいい。
 兄に見られた――それだけが、辛かった。
「……光一……僕……キミのこと、ずっと……嫌いだから」
「…………」
 光一がどんな顔しているのかも気にならない。こんな自分をだれが冷たい人
間と罵れようか。
 好きな人の前で犯した最低な――――
「……あぁ」
 はかなく、微笑む。
 気付かなければよかった。自覚ないまま、惰性で兄に抱かれてればよかった。
 気付くから――苦しくなる。
 気付かないままなら拒むこともなく、悦んでいられるだけだったのに。なぜ気
付いた?
 涙が止まらなかった。
 夜人は兄じゃない――夜人は好きな人。
 気付かずにいたかった。きっと兄は違う想いだから。
「……ちくしょう……」
 座り込んだまま、消えてしまいたくなった。
 もう、どこが痛いのかすらもわからない。




 家に帰ると兄は何も言わなかった。
 どこか冷めた瞳で遠くを見ているだけ。
 触れようともしなかったし喋ろうともしなかった。
「……」
 俯いたまま涙を堪える。
 けれど今の時人の感情を表すかのように、溢れてきてしまった涙を隠すため
に風呂へと走った。母が鈍くてよかった。気付かれたらよけいに辛い。
 シャワーの音と雨音が重なる。
 止まらぬ涙を流しながら、まだ残る生々しい感触を拭い去ろうと乱暴に体を
洗った。
 そんな事をしても、何も消えぬというのに。
「う……うぅ……うぁぁぁぁぁ」
 泣き叫んだのは、コレが初めてだった――――



 金曜日はいつも一緒に帰ってた。
 下校時刻が同じだから、と兄が持ちかけてきた。
 帰り道に喫茶店で兄がパフェを食べると言い出すから付き合ってアイスを食
べて、その後は本屋に寄って兄の買い込む大量の本に溜息をついた。
 コンビニで新商品を物色した。
 いつもの風景。
 大学の門で待つ時人に手を振りながら走ってくる夜人。
 時折り転んで、メガネを落としていた。
 いつもの風景―――
 なぜ今、それがない?
「……夜人兄……」
 しとしとと降り止まぬ雨の中、傘も差さずに佇んでいる時人の隣を大学に通う
生徒たちが通り過ぎていく。
 約束の時間を過ぎても姿を現さない兄。
 怒っている? 尻軽だと軽蔑された?
 幾つもの声が脳裏を過ぎる。冷えた体が重い。
 水を吸った学ランが鉛のように重かった。
「夜人……兄……」
 涙が溢れる。雨雫に流されて熱い涙が冷たくなる。
 歪む世界で、望む姿がない。
 ふざけた調子のあの声が聞こえない。

「時人……傘は……母さんがくれただろ?」

 遠くで、兄の声がする。幻聴? もう、幻聴でもいい――
「頭……冷やしたかった……」
「バカだろ? 風邪ひいたらどうするんだよ」
「風邪ひいてもいい……死んだっていい……夜人兄に嫌われるなら……」
「嫌うわけないだろ」
 冷え性気味の兄の冷たい手が頬に触れる。
「ちょっと手間取ってただけだよ」
 手を握るとほんのりと温かかった。
 幻覚じゃ――ない?
 恐る恐る顔を上げる。涙でかすんだ兄の顔は、所々腫れていたけれど、普段
と変わらないニヤけた笑いがあった。
「光一と殴り合いしてきた」
「なんで……?」
 泣きすぎて声が掠れている。
 夜人は時人の濡れた前髪を払いながら、
「人の大切な弟に手を出すなって。弟である以前に俺の恋人だってね」
 ニッコリと笑う。歪んだメガネが痛々しいけれど、そんなことは微塵にも感じさ
せない彼の一番の特徴ともいえる笑みだった。
「イライラしてたからシカトしてごめんねー。俺も大人にならないと」
 困ったように笑う。
 涙が――目頭が熱くなって、涙が溢れた。
「夜人兄……僕ね……夜人兄のこと」
「俺も好きだよ」
 フライング兄。
 そんな言葉が脳裏を過ぎったけれど、黙っていることにした。
 嬉しすぎて、言葉が何も出てこない。遠回りしすぎたけれどようやく来るべき場
所にたどり着いた。兄に差し伸べられた手をとって兄の傘に入る。雨はまだ降り
止まないけれど、学ランも体も重くない。
 なんてバカバカしい話だろう。実の兄との恋物語?
「時人は考えすぎなんだよ」
「夜人兄は考えなさスギだよ」


 ヤマもオチない。意味もない――本当にバカバカしい。